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うつわ道楽

No.53 年越し蕎麦

 大晦日に縁起を担いで食す年越し蕎麦。一般的には日本蕎麦が主流だが、細くて長い麺という括りからか、特産の地方ではうどんだったり沖縄そばだったりするそうだ。

家族で集い側(そば)に居るという語呂合わせという説や、蕎麦の細長い形体から長い寿命を希うという説もあるそうだが、いずれにしても願いの意味を込めた食習慣だ。添える薬味の葱は一年の苦労を労う(ねぎらう)という思いも込めた、とこれは少々こじつけのようにも感じるが、何にしても蕎麦に葱は欠かせない。私は、薬味にはかなり執着する方だと自覚している。私にとって麺類の葱は、顔で言えば眉のような物で、無いととても奇妙で間抜けな印象を受けるのだ。

洋風のハーブも好きでよく使う。使いこなすと言える程ではないが、鉢植えで数種類育てていて、重宝する。ハーブに関する文章を読んでいた時に、ジャパニーズハーブという文字を見つけた。葱は野菜としての食し方も有るが、薬味としての葱や紫蘇、芹や茗荷はジャパニーズハーブだと。ハーブと言うと西洋料理にイメージが固定されていた私は確かに、と妙に納得してしまった。近所のスーパーでも手に入るほど流通量も多く、日本人にとってそれだけ身近なハーブと言うことだろう。

好きな蕎麦屋で、大根おろしと山葵に生湯葉が添えられた蕎麦がある。丼に盛られていて、蕎麦つゆを掛けていただく。今年はそれを真似てみた。山葵は香りを、辛味は大根おろしで、これが蕎麦とよく合う。

器は、薄い作りの漆塗りの鉢。箱は無く、本体に名も無い。どなたの作か判らないし、入手の経緯も覚えていないのだが、よく使っている。とても薄く、木目が透けた生地に挽いた轆轤目の凹凸が有り、かかる漆が滑らかだ。手にすると見た目よりずっと軽い。暖かみのある漆で、冷たい蕎麦を盛っても温もりを感じる器だ。

今年の元旦から始まったこの『うつわ道楽』もちょうど一年を迎える事ができた。お節で始まり、年越し蕎麦で締めくくり。来年はどんな料理、どんな器で楽しもうか。

器 漆鉢  径 18cm 高 8,5cm

作 不明

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No.52 チキンのコンフィ

 クリスマスの定番メニューと言えばチキン。ありきたりだけれど、今や日本の風習として定着して久しい。毎年、どうしようかしらと考えるけれど、家族に季節を感じてもらうためにもやっぱりクリスマスイブにはチキンのメニューを用意する。

今年はチキンのコンフィ。コンフィ(Confit)はフランス料理の調理法で、食材の風味を良くし、保存性を高める効果がある。肉の場合は油で、果物は砂糖に浸して調理した料理の総称だそうだ。チキンは肉が完全に被る量の油で、低温でゆっくり加熱する。調理後も、そのまま素材が完全に油に浸っていれば保存が効く。フランスで、ヨーロッパで、冷凍庫や冷蔵庫の無かった時代に編み出された調理法だ。日本だったら昔からある保存法は、塩漬けか干物、燻製だけれど、と文化の違いを感じる。

今日は、コンフィしたチキンをオーブンでこんがり焼き色を付けて仕上げた。付け合わせはクリスマスカラーの野菜と、ハーブ風味のローストポテト。パンとワインを添えていただく。

角皿は萩焼。当代である 13代 三輪 休雪(きゅうせつ) が休雪を継ぐ前、三輪 和彦 の時代の作品だ。見込みにゴシック体で ‘KAZ’ と刻印されている。大きな名前を受け継ぐ前の作にはモダンさ、カジュアルさを感じる。350年続く三輪窯は代々 休雪を名乗り、継承して来た。13代は2019年に休雪を襲名したそうだ。この皿は休雪白と言われる、休雪ならではの白い釉薬が美しく、その厚味のある釉薬の間から、地の土の色が垣間見える。まるで風に舞い、大地に積もった雪を思わせ、皿の中に冬の風景が見えるようだ。

器 萩焼 白釉角皿  径 21,5cm 高 2,5cm

作 第13代 三輪 休雪(和彦)

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No.51 冬至かぼちゃ

 冬至は、北半球では一年の内で昼(太陽の出ている時間帯)が最も短い日だ。最も短いという事は、翌日からは少しずつ長くなるという事。この日を境に太陽の力が再び蘇るという前向きな解釈をするらしい。二十四節気では冬至を境に新しい年に切り替わり運気も上がる、とされているのだそうだ。

この日の食卓にはかぼちゃが上がり、柚子湯に入る。日本に伝わる冬至の過ごし方だ。かぼちゃを食べて栄養を付け、身体を温める柚子湯に入り、無病息災を願いながら寒い冬を乗り切る。生活に根付いた知恵だったのだろう。

かぼちゃの原産はアメリカ大陸だと言う。北も南も両方のアメリカ大陸。広大すぎてよくわからないが、紀元前4000年頃のペルーやメキシコで栽培して食されていた痕跡が見つかったため、その頃の発祥と思われていた。しかし1997年、それよりも数千年早くメソアメリカで栽培化がはじまっていたと思われる発見があり、かぼちゃの歴史は8000年とも言われるらしい。世界史の教科書で覚えた、古代四大文明より更に数千年以前に、一体どんな文明が有ったのだろう?新石器時代と呼ばれる頃のはずだ。昨今、かぼちゃはスウィーツの素材にも使われるくらい素材自体に甘味のある野菜だと私達は認識しているが、その頃のかぼちゃは一体どんな形でどんな味だったのだろう。

冬至のかぼちゃは、地方によって食べ方はまちまち。この通称 “いとこ煮” と呼ばれるかぼちゃと小豆の煮物は、東北と関西に伝わっているもので、他の地方にはかぼちゃ汁やかぼちゃ汁粉、かぼちゃ蕎麦などがあるそうだ。

いとこ煮は一般名称で、煮るのに時間のかかる小豆を先から煮ていて、そこに他の素材を “追い追い”加える事から “甥と甥”の語呂合わせで “いとこ” となったと言われている。かぼちゃと小豆の組み合わせに限った名称ではなく、鶏と卵、鮭といくら、の親子丼と同じようなものだろうか。このいとこ煮、私は冬至に限らず時々作る。初めは、何とも奇妙に思えたが、少し煮崩れたかぼちゃと小豆のマッチングが良く、かぼちゃに小豆の風味やこくが加わり食感と味わいの組み合わせの妙が美味しく、また食べたくなる味だ。

輪花の赤絵の小鉢は、度々登場している川瀬 竹春のもの。少し厚手の白磁で輪花の縁が際立ち、見込みまで続く凹凸の陰影が美しい器だ。

器 赤絵 輪花鉢  径15cm 高5,5cm

作 古余呂技窯 川瀬 竹春

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No.50 鱈子の煮物

 多分5年振り位になるだろうか、生鱈子を煮た。助惣鱈の子、いわゆる”たらこ”の塩をする前の生を、出汁で甘塩っぱく煮たものだ。佃煮ほど濃い味ではなく、煮込む時間も火が通って味が滲みる程度に。大好きで、生鱈子を魚屋で見つけると作っていたのだが、人も大人になると好きな物を好きなだけ食べられる訳ではなく、自重して控えるようになった。

しかし、この鉢に何を盛ろうかと考えた時この煮物が浮かんだ。尾形 乾山の鉢。本当は自分の料理を盛ること自体、恐れ多い。

尾形 乾山(1663~1743)は、寛文3年、京都の呉服屋の三男として生まれた。5歳上の兄は尾形 光琳。光琳は放蕩三昧だったとの話が伝わるが、乾山は対照的に学問に熱心な読書人で、堅実で質素を好んだようだ。そんな性格の違う兄弟だが、仲が良く兄が絵付け、弟が作陶と書で合作も残っている。

さすがに、盛り付けとなると緊張する。焼が甘く柔らかいので、生地が乾いた状態でいきなり料理を盛ると汁が沁み込み、色もついてしまう。だから使う前に暫くぬるま湯に浸けて、汁が入らないように予め湿らせておく。

200年を超える年月を経たこの器は、器自体に力が有って魅力的だ。時を経た事で付く重みも在るだろうが、元から人々を魅了する器だったからこそ、大事にされて使われて来たという事だ。写真でも判るが、何本もの入(にゅう)が入っている。口は釉薬が爆ぜて剥がれたところもある。今出来の器にそれらが有ったら、それは傷でしかないだろうが、この器には、それすらも器の歴史を感じさせる風格がある。

一方に小さな注ぎ口が有るこの形を、片口(かたくち)と言う。実際に酒を入れて、徳利と同じ用途に使う目的の片口もあるが、これで酒を注いだ人がいたとは、私は思えない。キュートなディテールの片口が有ることで、鉢としても一層魅力を増している。フォルムと絵付の完璧なバランスに見惚れるばかりだ。

器 秋草片口鉢 径14cm 高8cm

作 尾形 乾山

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No.49 ケークサレ

おしゃれなフランス料理、ケークサレ。手の込んだフランス料理を家で作ることはまずない。が、このパウンドケーキ型で焼くケークサレは思い付くと時々作る。メインの献立に、サラダとフランスパンだと少し寂しいかな、と言うときなどにサイドメニューとして最適だ。

パウンドケーキのように見えるが、お菓子ではないので砂糖は使わない。小麦粉にオリーブオイルで炒めた玉葱やベーコン、ブロッコリー、卵、おろしたチーズなどが入っていて、そのままでワインにぴったりの、フランス風惣菜パンのようなものだ。具は様々、好みで工夫次第と思うが、私はシンプルなこの組み合わせが気に入っている。残ったら、写真のようにサラダと盛り合わせてブランチにする。休日ならグラスワインを添えてカフェ気分も味わえる。

縁に金のラインが入ったこの皿は、Susie Cooper(スージー クーパー)がまだ自らのブランドを持つ前の Gray’s Pottery (A.E.Gray Ltd.)時代の作品だ。彼女は1929年、27歳の誕生日に自らの名を冠する陶器ブランドを立ち上げて独立しているので、それより以前ということになる。以前の回(No. 9, 33 )のものも同じ時代の作品で、モチーフの花や手描きのタッチが近い。しかし、Gray’s Pottery の前2回登場した器や、Susie Cooper ブランドの器はぽったりした暖かみのある肌だが、これは透明感のある、薄い白磁のクリアな質感でよそ行きのように少し気取って見える。

古い器は、絵付けやラインの金が剥がれたり、擦れて薄くなっている事が多いのだが、この皿は金も比較的良く残っているし、皿自体にもナイフなどで付いた傷がほとんどない。綺麗に、大事に使われていたのだろう。金色は、色の釉薬とは違って、金の粉をガラス質に混ぜて焼き付けると言う。金属として柔らかい金は、使って洗う度に擦られて剥がれてしまうのだ。新しい器ならそう簡単に剥がれることはないが、100年近く使われていれば、大事に扱ってもこの位は致し方ないと思う。むしろ、大事に使われてこの状態で残っている事がすごいなあ、と感謝の思いだ。

器 花柄 皿 径 22,5cm 高 1,8cm

作 Susie Cooper (Gray’s Pottery)