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うつわ道楽

No.65 道明寺桜餅

桜が咲き始めた。気候が不安定でも、天災に見舞われても、どこかで争いが有っても、春は訪れる。帝や将軍が居た時代から、そのもっと以前から、桜は人々を喜ばせ癒してきた。

桜の小皿に桜餅を盛った。道明寺粉で作った関西好みの桜餅だ。その昔、道明寺で寺の保存食として作られていたとされる、餅米を蒸して乾燥させて作る干飯(ほしいい)という食物が有った。長期保存が出来る事から、戦国時代には武士の携帯食糧として用いられていたと言う。水でふやかして加熱する、などして食していたそうだ。この桜餅を包んでいる道明寺粉とは、その干飯を砕いたものを指す。その道明寺粉を再度蒸して色を付けたもので餡を包み、桜の葉の塩漬けを添えたのが道明寺桜餅だ。普通に餅米を使うより米の粒感が残り、餡と馴染むあの絶妙な食感が生まれるのだそうだ。

この桜の小皿は一世紀以上前に、永楽 明全によって作られたもの。華やかな色を使った訳でもなく、春の霞がかかったようなふんわりした桜だ。妙全は、以前 No.23 でも使っているが、14代永楽 善五郎である得全の妻で、本名のお悠さんの名でも知られ、三井家には悠の印を拝領したそうだ。善五郎を襲名することは無かったが、50歳そこそこの若さで亡くなった得全の後の永楽を支えたとされる。私は、永楽窯の中でもこのお悠さんの作品には好きな物が多い。ある物は緻密で、ある物は優雅で、作品にお悠さんの柔らかい感性を感じる。

この小皿、我が家に在るのは一枚きり。この小皿が五枚組なのか、絵がわりで組んでいたものかは判らない。小皿にしては見込みが深く、縁が高めだ。高台周りには細かい鉋目が有って、小さな皿ながら手の込んだ風格を感じる。鉄釉の濃い茶と透き通るような白の濃淡だけながら、多く色を使っているような満開の華やかさを感じる。

器 桜小皿 径11cm 高3cm

作 永楽 明全

 

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No.64 鯛の昆布締

 昆布締めは、冷蔵手段が整っていなかった頃の保存方法として、そしてその美味しさで実益を兼ねた料理法だ。最近は鯛がよくサクで売られている。養殖技術が進化した恩恵も有るだろう。お刺身好きな私は、鯛だけでなく、サクで売られている良い鮮魚を見つけると、つい買ってしまう。その日のうちに使わない時は昆布締めにしておく。そして、それを翌日食べ切ることが出来なくても、数日置いてよく昆布が沁みたものを和え物にしても美味しい。

鯛は、新鮮なお造りはもちろん美味しいのだけれど、軽く昆布で締めたものも、水分が抜けて味が凝縮し、そこに昆布の旨味が加わって、フレッシュなものとは違った美味しさが有る。昨日見つけた天然物の鯛のサクは、昨夜昆布締めにし、半日経ったところでお刺身にした。

菊の葉を模した皿は、京焼、千家十職(せんけじゅっしょく)に名を連ねる永楽窯のもの。永楽は代々、善五郎を襲名する。この皿は11代 保全(ほうぜん)が善五郎を退いて12代 和全(わぜん)が善五郎を継いだ後、隠居名として一時期名乗った善一郎の頃のもので、箱裏に永楽印と共に、善一郎の名が在る。そして、5枚組の皿、本体の印は河濱支流(かひんしりゅう)だ。

元々、初代 宗全は奈良の西京西村に住み、春日大社の供御器を作って西村姓を名乗っていた。晩年、武野 紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師 善五郎を名乗るようになった。2代は堺、3代の時に京へ移り、小堀 遠州の依頼を受けた時に宗全の銅印を拝命し、以降9代まで宗全を名乗った。天明の大火で印と屋敷を失うが、10代 了全が三千家の援助を受けて再生。千家十職となるのもこれ以降の事らしい。

そして、11代 保全が1827年に紀州藩10代藩主 徳川 治寶の別邸の御庭焼き開窯に招かれた時に、河濱支流の金印と、永楽の銀印を拝領した。それ以来、代々、永楽の印を使い、12代 和全の代から、西村を改め永楽姓を名乗るようになった。遡って了全、保全も永楽の姓で呼ばれているのだそうだ。

と、その金印で押された、のであろう河濱支流の印が在る菊の葉の皿。その金印は以後、代々受け継がれているそうだ。だが、永楽の印は各代でそれぞれオリジナルを作る。そのため永楽の印を見ればどの代、誰の作品かが判る。

いつの時代だろうこれを所持していた誰かが、この善一郎の名と、保全の永楽印の在る、厚い杉の盛蓋の立派な箱に、『黄薬 菊葉形 中皿』と書いている。皿、と言えば皿だけれど、少し大振りながら、私には向付に思える。優雅な曲線が美しい輪郭。盛られた料理を包み込む見込みの深み。落ち着いた黄薬の色。茶懐石の四つ碗と共に向付として使ったら、薄暗い茶室でさぞ映えるだろうと思う。そんなイメージで鯛の昆布締めを盛ってみた。

器 黄薬 菊葉形 平向 五枚組 径20×14,5cm 高6cm

作 永楽 善一郎(保全)

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No.63 梅干し

 庭の紅白の梅が満開だ。晴れた青い空によく映える。まだ冷たい空気に漂う梅の香が清々しい。

繊細ながら力強い絵付けの蓋物は、不老軒 亀寿 (宮田 亀寿)のものだ。蓋の盛り上がりが高くてボリュームが有り、蓋をした状態だと上部から底の高台にかけての緩やな曲線。祥瑞の縁の太い一文字の紋が、この柔らかい形を引き締める。絵付けはしっかりした呉須の色で、繊細ながら力強い筆使いの松竹梅の絵柄。有無を言わせない、完結した姿が出来上がっていて、私は見るたびに惚れ惚れする。

亀寿は父の教えでこの技を身につけたらしい。父は陶工の塩野 熊吉朗。天保の時代、有田焼の窯へ出向いて染付の技術を学び、京へ戻ってその技術を高橋 道八、仁阿弥 道八らへ伝えた事で、幕末の京焼の染付が大きく発展したのだそうだ。

器を眺めるだけで楽しめるのだが、今日は昨年漬けた小梅の梅干しを盛ってみた。前は大粒の南高梅をよく漬けたのだが、一度に一粒は少し多く、最近は小梅を漬けている。

本体の内側、口周りは他の部分より少し薄い作りになっていて釉薬を掛けず、土の肌が出ていてざらざらする。蓋側の合わさる部分にも、内側に薄い、同じ肌の持ち出しが出ていて、蓋をした時にぴったりと合わさるように工夫され、この外観が作られている。細かい、凝った作りだ。このかわいらしい丸みのある形は、作り手の技術と拘りに依るものか、と納得する。

器 染付 松竹梅蓋物  径8cm 高9cm

作 不老軒 亀寿

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No.62 雛祭りの押し寿司

 私が子供の頃、母が毎年雛祭りに作ってくれていた押し寿司がある。当時の私は食材の好き嫌いがとても多く、私が食べられる材料で、雛祭りらしく工夫してくれていたのだと思う。アイディアは、本か新聞などに載ったレシピだったのかも知れない。その押し寿司は、酢飯が二層になっていて、一層は白胡麻、もう一層は蟹が混ぜ込んであった。一番上は炒り卵。ケーキのような見かけが可愛らしく、苦手な食材も入っていない、年に一度の私の楽しみだった。作り手としては、もっと色々入れて作りたかったのだろうなあ、と今は思う。だがその頃は人参も椎茸も大葉も、生魚も食べなかった娘のために考えたのだろう。暫く前から、私は昨年の雛祭りで掲載したばら寿司 (No.10) を作っている。今や偏食も無くなり、何でも美味しくいただくので欲張りなばら寿司だ。 でも、今年はこの押し寿司を作ってみたくなった。

一層目は大葉と酢蓮根、二層目は蟹と白胡麻。酢飯も少しバリエーションを付けて、トッピングに海老も飾った。雛飾りにある菱餅ほどの色の差は付けられなかったけれど、当時のことを思い出しながら、今も健在な母と桃の節句を祝った。

この備前焼の銅羅鉢、備前の土を使っていながらこの薄さ。垂直に立ち上がった壁面も、底面もこの厚さなので備前の鉢とは思えないくらい軽量だ。持ってみるとその軽さに驚く。備前焼作家さんの作品だともう少し土を多く使ったものが多いが、これを作ったのは、北大路 魯山人。料理を盛る側の器作りの美意識、使い勝手の拘りを感じる。

器 備前土 銅羅鉢 切立形 径23,5cm 高6,5cm

作 北大路 魯山人