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うつわ道楽

No.226 若竹煮

 今年も筍が届いた。大きな鍋2つ使って下茹でし、ひと晩置いた。たっぷりのお出汁で山ほどの若竹煮を作った。庭の山椒はかなり育っているけれど、まだ出立ての小さい葉を選んで香りを添えた。

緑釉のどら鉢に盛ってみようと、筍は大きめにした。この、北大路 魯山人 の鉢の迫力に見合うように盛り付けるのは難しい。大胆に、と鉢の声が聞こえたけれど、中々思うようには納まらない。考えていたよりはこじんまりとまとまった。試行錯誤しながらも、この鉢にどう盛ればもっと素敵だろう、と学ばせて貰った。

 箱書きには “織部 鉢” とだけある。見込みの向こう側に口から縦に “入” が有る。これは窯傷で、後から入ったものではなく金や銀の継で直しもせず、そのままを楽しんで使われて来たようだ。魯山人はこの器を鉢としているが、その後のどなたかがお抹茶の水指に見立てたようで、真塗りの漆の蓋が添っている。織部焼の緑の釉薬一色だけを使ったシンプルな鉢だけれど、口周りの釉薬は垂れて薄く、見込みの底の溜まった緑はとても深い。胴に幾重かに回された窪みや、見込みの渦巻の凹凸に釉薬の濃淡が美しい。

器 おり部 鉢  径21cm 高9,5cm

作 北大路 魯山人

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No.225 山椒の葉の佃煮

 少し前、4月になる頃だろうか、ただの棒のようだった小さな山椒の木のあちらこちらに小さい緑色の芽が出始めた。日に日に葉は育って生い茂り、料理に飾るには大きすぎるほどになった。とは言えまだ出たばかりの葉は柔らかい。思い立って両手に山になる程の葉を摘み取り、佃煮を作ってみた。

よく洗ってから下茹でをして灰汁を取る。絞ると片手で握れるほどの量になった。初めてだし、試してみるにはこのくらいの量がちょうど良いかもしれない。葉が絡まない程度の大きさに包丁で切ってから出汁、醤油、酒、味醂と砂糖を併せた汁で数分煮て冷ます、を何度か繰り返して味を染み込ませつつ汁を煮詰める。

若い葉とは言え、葉の真ん中の細い茎は少し舌に触るけれど、えぐ味の少ない食べやすい佃煮が出来た。以前食べた山椒の葉の佃煮は、口の中がカッと痺れるほど強烈だった。最初の下煮の時間を短くすればきっともう少し刺激的な仕上がりだっただろうか、と思う。早速炊き立てのご飯で春の香りを味わった。

盛り付けた蓋物は第16代 永楽 善五郎(即全) の赤絵金蘭手。福禄寿の3文字が散りばめられ、小振りながら華やかな器だ。少し厚手の白磁で、蓋裏と見込みに絵は無い。見た目が地味な佃煮だから、こんな器に盛ってみるのも楽しい。

器 赤絵金蘭手 蓋物小鉢 径9,2cm 高6,5cm(9,5cm蓋込)

作 第16代 永楽 善五郎 即全

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No.224 人参しりしり

 子供の頃は嫌いな食材が沢山有って、人参もそのひとつだった。それが今では好きな野菜のひとつになった。人参を山で買って、沢山ある時はこの”人参しりしり”や”人参のラペ(No.33)”などを作り置きする。

”人参しりしり”は沖縄の料理。随分前に沖縄を訪れた時に知った。もうその頃には人参は好きになっていた。厳密に言うと、今回作ったのは”しりしり風”。沖縄には”しりしり器”と言う調理器具が有って、それで人参を”しりしり”して作るのが “人参しりしり”という料理だ。金属の板に加工がしてあって、その上を野菜をスライドする事で簡単に形の揃った千切りとかスライスが作れる、そんな器具のひとつ。しりしり器は持っていないので、チーズをおろす四面体の器具で作ってみたりもするのだけれど、今回はシンプルに包丁で千切りにした。包丁で切ると切り口が滑らかで、歯触りもシャープ。しりしり器で作ると、切り口に凹凸が多いので、味が滲みやすく歯触りも柔らかくなる。その時の気分で使い分けている。味付けはお出汁と酒、砂糖、少しの醤油で甘めに作る。最初に胡麻油で炒める事と、白胡麻を振り掛けるのがポイント。

 盛った小皿は古曾部焼(こそべやき)。裏の印から第3代 五十嵐 信平 (1833〜1882) の作と思われる。元々の古曾部焼は、平安時代の僧侶で俳人の 古曾部入道 能因(988-1050) が、古曾部(現在の大阪府高槻市)で手捻りで陶器を作ったのが始めらしい。その後、安土桃山時代〜江戸時代初期の寛永年間まで焼かれていて、小堀遠州による遠州七窯のひとつとされた、との言い伝えが有る。が、残念ながらこの頃の物は残っておらず、窯跡の所在も不明との事だ。

その後、江戸後期に京都で作陶を学んだ 五十嵐 新平 が高槻市古曾部に登り窯を開いて再興した。古曾部焼の窯は五十嵐の一軒だけなので、五十嵐の窯が古曾部窯となる。以降代々 ”古曾部” の印を使って高取、唐津、絵高麗、南蛮写などの作風で作陶した。初代、2代は”新平”との記載だが、3代から”信平”となっているので、理由は判らないが3代で名前の字を改めたと思われる。この五十嵐による古曾部窯は120年ほど続いて、5代の時に廃窯になっている。

この小皿、見込みの面だけに白い釉薬を掛け、呉須で波を描いている。厚めに掛かった釉薬に青の線が涼しげに見える。裏側は白の釉薬は掛けず土のまま、高台も無く底面は真っ平。底の円形を中心に、皿の縁まで等間隔で相似形の6つの円が彫られている。素朴な印象で愛着の沸く。

器 古曾部焼 小皿  径10cm 高2cm

作 第3代 古曾部窯 五十嵐 信平

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No.223 ほたるいかの酢味噌掛け

 この時期は、ほたるいか漁の最盛期。魚屋の店先には連日プリっとした可愛らしい釜揚げが並んでいて、つい手が伸びてしまう。大きさを揃えて下処理をし、綺麗にパックして販売されているほたるいかは価格も高め。少し面倒でも自分で手間を掛ければその分割安に手に入る。

以前、魚屋さんにほたるいかの下処理の方法を教えてもらった。まず、左右の眼を取り、お腹側にある半透明な軟骨を抜く。そして脚に囲まれた中央にあるクチバシの奥側を親指と人差し指で摘むと、硬くて丸い口が押し出されるので取り除く。このクチバシまで取れば ”完璧” だそうだ。もっと大きい、やり烏賊などを捌いた経験から烏賊の構造は解っているけれど、ほたるいかはとにかく小さい。自分の指位の大きさしかないから、力を入れると潰れてしまう。小さすぎて軟骨を探し当てるコツを掴むのに苦労した。でも ”完璧” に下処理をするとその分美味しくいただける。

ほたるいかは菜の花と盛り合わせて酢味噌でいただいた。酸味を強くしたくないので、白味噌を出汁で伸ばしてから砂糖と酢で味を整えた。まろやかな白味噌と酸味が加わってほたるいかの濃い旨みが引き立つ。使った器は粟田焼、江戸時代後期の 岩倉山 吉兵衛作 の手塩皿。見込みには細い筆使いで風に揺れる撫子の花が描かれている。華奢で上品な器が多く、濃い色が染み込みやすいのが難点だけれど、気持ちの安らぐ焼き物だ。小さなほたるいかが象牙色の薄くて華奢な器に映える。

 粟田焼は初期の京焼のひとつ。箱には『御茶碗師 岩倉山造』の銘と共に『御菩薩 手塩皿』(みぞろ てしおざら)と有る。岩倉山 吉兵衛 は、初め洛北の岩倉で陶器を作っていたが宝暦以前に粟田に移り、元の窯の地名から岩倉山を名乗った、と言われている。岩倉山は江戸初期に洛北に有った御菩薩焼の流れを汲むのかもしれない。可憐な色絵の作風も御菩薩焼の特徴らしい。岩倉山の銘があるので、この器が粟田焼の 岩倉山 吉兵衛 の作であることは間違い無いが、御菩薩焼の作風を伝えるもの、という意味で『御菩薩』と書き加えられたのだろうか。想像が膨らむ。

岩倉山は、1755年に将軍家の名を受け、日常の器を納入、以降も将軍家や有力社寺の御用を勤めたそうだ。文政から天保(1815〜1844)にかけての吉兵衛は仁清風の作風の名手だったと伝えられている。初代から数えて何代続いたかは不明だが、岩倉山は明治7年頃に廃業したそうだ。

器 御菩薩 手塩皿  径9cm 高2,8cm

作 粟田焼 岩倉山 吉兵衛 (代は不明)