No.135 鰻丼
もうすぐ土用の丑の日。夏の暑さに負けないよう、滋養強壮に鰻を食す習慣がある。この、鰻を食べる習慣は江戸時代後期に始まったものらしい。元々、丑の日には『う』の付くもの、という事で『瓜』や『うどん』が食べられていたそうだ。いつの頃からか、夏バテ予防にもなる栄養豊富な鰻が定着したらしい。
食材としてのうなぎの歴史は、5000年前の縄文時代に遡ると聞いて驚いた。貝塚から、自然に死んだ骨格ではなく調理して食べた残りの骨の状態で見つかっているそうだ。万葉集にもうなぎを食べていたと判る歌があるらしい。当時はどんなにふうに料理していたのだろうと想像が膨らむ。とは言え、うなぎが本格的に食べられるようになったのは江戸時代。家康が江戸の開発を進めていた際に、干拓によって出来た湿地にうなぎが住みついた。そのうなぎが当時の労働者に、食材として定着していったそうだ。それだけ当時は野生のうなぎが多く居たのだと驚く。今や天然のうなぎは高嶺の花で中々手が出ない。しかし、当時はまだ捌き方や料理法は確立していなかっただろうから、少し泥臭の残るものだったのかもしれない。その後、長い江戸時代の間に試行錯誤し『鰻』の美味しい調理法が確立されたのだろう。
漆の蓋のあるこの器は、杉田 祥平の黄南京。箱には向丼と書いてある。丼には少し小振りなので向附けの名も入れているのだろうか。少し粗めの土の肌に黄色の釉薬が透けて、そのむらのある質感に柔らかい印象を受ける。彫刻されて窪んだ線に釉薬が溜まって、5本の爪の龍が浮き出している。現在は4代がご活躍の清閑寺窯だが、この器は先代に当る 3代 杉田 祥平 の作と思われる。
器 黄南京 龍彫刻 向丼 漆蓋 径14cm 高7,2cm(8,5蓋込)
作 清閑寺窯 杉田 祥平