No.64 鯛の昆布締
昆布締めは、冷蔵手段が整っていなかった頃の保存方法として、そしてその美味しさで実益を兼ねた料理法だ。最近は鯛がよくサクで売られている。養殖技術が進化した恩恵も有るだろう。お刺身好きな私は、鯛だけでなく、サクで売られている良い鮮魚を見つけると、つい買ってしまう。その日のうちに使わない時は昆布締めにしておく。そして、それを翌日食べ切ることが出来なくても、数日置いてよく昆布が沁みたものを和え物にしても美味しい。
鯛は、新鮮なお造りはもちろん美味しいのだけれど、軽く昆布で締めたものも、水分が抜けて味が凝縮し、そこに昆布の旨味が加わって、フレッシュなものとは違った美味しさが有る。昨日見つけた天然物の鯛のサクは、昨夜昆布締めにし、半日経ったところでお刺身にした。
菊の葉を模した皿は、京焼、千家十職(せんけじゅっしょく)に名を連ねる永楽窯のもの。永楽は代々、善五郎を襲名する。この皿は11代 保全(ほうぜん)が善五郎を退いて12代 和全(わぜん)が善五郎を継いだ後、隠居名として一時期名乗った善一郎の頃のもので、箱裏に永楽印と共に、善一郎の名が在る。そして、5枚組の皿、本体の印は河濱支流(かひんしりゅう)だ。
元々、初代 宗全は奈良の西京西村に住み、春日大社の供御器を作って西村姓を名乗っていた。晩年、武野 紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師 善五郎を名乗るようになった。2代は堺、3代の時に京へ移り、小堀 遠州の依頼を受けた時に宗全の銅印を拝命し、以降9代まで宗全を名乗った。天明の大火で印と屋敷を失うが、10代 了全が三千家の援助を受けて再生。千家十職となるのもこれ以降の事らしい。
そして、11代 保全が1827年に紀州藩10代藩主 徳川 治寶の別邸の御庭焼き開窯に招かれた時に、河濱支流の金印と、永楽の銀印を拝領した。それ以来、代々、永楽の印を使い、12代 和全の代から、西村を改め永楽姓を名乗るようになった。遡って了全、保全も永楽の姓で呼ばれているのだそうだ。
と、その金印で押された、のであろう河濱支流の印が在る菊の葉の皿。その金印は以後、代々受け継がれているそうだ。だが、永楽の印は各代でそれぞれオリジナルを作る。そのため永楽の印を見ればどの代、誰の作品かが判る。
いつの時代だろうこれを所持していた誰かが、この善一郎の名と、保全の永楽印の在る、厚い杉の盛蓋の立派な箱に、『黄薬 菊葉形 中皿』と書いている。皿、と言えば皿だけれど、少し大振りながら、私には向付に思える。優雅な曲線が美しい輪郭。盛られた料理を包み込む見込みの深み。落ち着いた黄薬の色。茶懐石の四つ碗と共に向付として使ったら、薄暗い茶室でさぞ映えるだろうと思う。そんなイメージで鯛の昆布締めを盛ってみた。
器 黄薬 菊葉形 平向 五枚組 径20×14,5cm 高6cm
作 永楽 善一郎(保全)