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No.68 筍のバターソテー

 筍の季節。毎年届く福岡県合馬のものだ。今年の筍も柔らかくて香り高い。筍ご飯や、お出汁で炊いた筍をいただくと、風味と歯触りが格別だ。たくさん炊いて一度に食べ切ることができなくても、翌日はしっかり味の沁みた筍が味わえる。その筍の煮物を朝食にバターソテーにしてみた。筍には味がついているからバターだけで少し焦げ目が付くくらいにゆっくりソテーする。バターの風味と筍についた焼き色の香ばしさで、思った通りの美味しさだ。

半月前までまるで針金のように細いただの棒だった庭の山椒の木。小さい緑の粒のような葉の芽が出始めたのが10日程前だったろうか。その粒が少し大きくなり、葉の形になり、日々眼を見張る速さで料理に使える大きさの葉に育った。今年は家の山椒は筍には間に合わないだろうと思っていた。その私の諦めを感じたのだろうか、自然のパワーには驚かされる。おかげで摘みたての山椒の香りを添えた、贅沢な筍料理を味わった。

 蓮の葉を象った古染付の皿。目立たないが、表面に印刻で葉の葉脈が入っている。呉須で描かれているのは風景。崖のような山肌と、小さい丘に向かい合って座る二人の人物。見込みには上手く窪みが作られて料理が盛りやすい。皿は左側が右側より大きく張り出している分、右側は少し高く、まるで持ち手のように皿の端が柔らかく反り、料理を盛った時の左右のバランスが良いと感じる。

皿の裏には脚ではなく、渦巻き状に付けられた高台がある。ゆるく舞いた蚊取り線香のようだ。蓮の茎は真っ直ぐだけれど、この高台は葉から続く茎を表現したものか、と思ったりしている。

器 古染付蓮葉向皿 五枚  径19,5×12,5cm 高3,5cm

 

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No.67 苺のタルト

 今月が誕生月の私。ひさしぶりにこのタルトが恋しくなって買いに行ってきた。昔から、このお店の一番のお目当てはブルーベリーだった。以前はいつも有ったのだけれど近頃は季節の一時期にしか作らなくなってしまっていて、残念ながら買えなかった。それで今回は今が旬の苺のタルトにした。鮮やかな赤い苺は見ているだけでも元気が出る。サクサクの生地に軽めのカスタードクリームが載って、甘酸っぱい苺を引き立てる。

普通のケーキ皿では窮屈そうなので、マイセン(MEISSEN)のミート皿に盛った。アンティークと言うほど時代を経てはいないけれど、ドイツがまだ壁によって東と西に隔てられていた頃のものだ。色とりどりの可憐な手描きの花、縁の優雅な曲線を金で縁取取ったこの皿は、軽やかで普遍的な美しさを感じる。マイセンでは『散らし小花』と呼ばれるこの柄、我が家でカップアンドソーサーも所持している。近年作られたそのカップアンドソーサーとこのミート皿を比べると、同じ柄でも時代の違いで雰囲気が異なる。職人固有の筆使いの差も有るだろうが、絵付けの色使いや発色、モチーフの花のディテールが柔らかい。

以前、No.24の回でもケーキ皿を使ったが、マイセン窯の歴史は300年以上前、17世紀に始まる。マイセンの日本語版公式HPによると、当時まだヨーロッパには磁器を焼く技術が無く、中国や日本の伊万里焼が珍重され、人気が高かった。ヨーロッパ諸国の王侯貴族や実業家は、白くて薄く、艶やかな硬質磁器の製法を見つけようと知恵を絞っていたそうだ。

中でも、元々東洋磁器の蒐集家でもあったドイツのザクセン選帝侯アウグスト強王が最も熱心で、錬金術師のヨハン フリードリヒ ベトガーを監禁して、その製法を研究させた。ベトガーは1709年に遂に白磁の製法を解明し、翌年の1710年、ヨーロッパ初の硬質磁器 マイセン窯が誕生した。その後、アウグスト強王は、交易品として価値のある硬質磁器の製法が他国に漏れないようにと、功労者であるベトガーを幽閉してしまった。監禁されて成果を出して、解明した挙句にまた幽閉とは、なんと辛い話だろう。

アウグスト強王の情熱と、功労者で犠牲者でもあったベトガー。マイセン窯には食器だけでなく食卓や室内を飾る精巧で美しい彫刻も多く、長い歴史を経てその意匠と技術が今に伝えられている。何気なく使っている陶器や磁器にも、その開発や発展に携わった人達の情熱と努力、そして犠牲も有ったのか、とそれを成し遂げてきた先人達の苦労を思う。

器 散らし小花 ミート皿  径23cm 高3cm

作 MEISSEN

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No.66 花見酒

 昨夜の強風で飛ばされたのであろう桜が一輪、家の裏庭に落ちていた。散り始めた桜の花びらが風に舞い、この季節ならではの優雅な風景を楽しんでいたら、この盃を思い出した。風に舞い踊る花弁のように筆が動くのだろうか、朱で書かれた花の字が美しい。こんなに華やかで優しい器を作る、小山 冨士夫という人はどんな陶芸家だろうかと調べてみた。

陶磁研究家で陶芸家 小山 冨士夫(1900〜1975)は、亡くなられた頃には日本陶磁協会理事、東洋陶磁学会常任委員長という肩書きを持つ、お堅い研究者という印象だった。

1900年(明33)岡山に生まれ、幼少期に東京 麻布に転居し、家族と共に教会にも親しんだという。東京商科大学(現 一橋大学)在学中に、社会主義運動に共鳴し、中退して一時期カムチャツカへ渡ったが、大正12年の関東大震災で帰国。教会の救済事業に従事した後、志願して一年間、近衛歩兵部隊に入隊した。私が調べた内容としては、ここで知った人の影響で陶器に興味を持った、という。これまで陶芸とは無縁だったと思われる小山 冨士夫の、その後の人生を陶芸とその研究に向かわせたきっかけとはどんなものだったのだろう。除隊後、京都 山科の真清水 蔵六(ましみず ぞうろく)に弟子入りし、京の古い窯跡の調査や朝鮮半島、中国への旅を経て自らも独立して作陶を始める。そしてその後も多くの陶工や陶磁研究者との交流を経て日本や東洋の陶磁器の研究を進め、多くの研究書や古陶磁全集などをまとめた。と、かなり堅い話になってしまったが、この作者はそういう方だったらしい。

それを知って、改めてこの酒器を見ると作者の小山 冨士夫さんはどんな方だったのだろう、と興味が湧いてくる。細かい調査や山のような資料に囲まれている研究者と、この優しい酒器を作った陶芸家がなかなか重ならない。

器 花酒器 径8,5cm 高3,3cm

作 小山 冨士夫

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No.65 道明寺桜餅

桜が咲き始めた。気候が不安定でも、天災に見舞われても、どこかで争いが有っても、春は訪れる。帝や将軍が居た時代から、そのもっと以前から、桜は人々を喜ばせ癒してきた。

桜の小皿に桜餅を盛った。道明寺粉で作った関西好みの桜餅だ。その昔、道明寺で寺の保存食として作られていたとされる、餅米を蒸して乾燥させて作る干飯(ほしいい)という食物が有った。長期保存が出来る事から、戦国時代には武士の携帯食糧として用いられていたと言う。水でふやかして加熱する、などして食していたそうだ。この桜餅を包んでいる道明寺粉とは、その干飯を砕いたものを指す。その道明寺粉を再度蒸して色を付けたもので餡を包み、桜の葉の塩漬けを添えたのが道明寺桜餅だ。普通に餅米を使うより米の粒感が残り、餡と馴染むあの絶妙な食感が生まれるのだそうだ。

この桜の小皿は一世紀以上前に、永楽 明全によって作られたもの。華やかな色を使った訳でもなく、春の霞がかかったようなふんわりした桜だ。妙全は、以前 No.23 でも使っているが、14代永楽 善五郎である得全の妻で、本名のお悠さんの名でも知られ、三井家には悠の印を拝領したそうだ。善五郎を襲名することは無かったが、50歳そこそこの若さで亡くなった得全の後の永楽を支えたとされる。私は、永楽窯の中でもこのお悠さんの作品には好きな物が多い。ある物は緻密で、ある物は優雅で、作品にお悠さんの柔らかい感性を感じる。

この小皿、我が家に在るのは一枚きり。この小皿が五枚組なのか、絵がわりで組んでいたものかは判らない。小皿にしては見込みが深く、縁が高めだ。高台周りには細かい鉋目が有って、小さな皿ながら手の込んだ風格を感じる。鉄釉の濃い茶と透き通るような白の濃淡だけながら、多く色を使っているような満開の華やかさを感じる。

器 桜小皿 径11cm 高3cm

作 永楽 明全

 

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No.64 鯛の昆布締

 昆布締めは、冷蔵手段が整っていなかった頃の保存方法として、そしてその美味しさで実益を兼ねた料理法だ。最近は鯛がよくサクで売られている。養殖技術が進化した恩恵も有るだろう。お刺身好きな私は、鯛だけでなく、サクで売られている良い鮮魚を見つけると、つい買ってしまう。その日のうちに使わない時は昆布締めにしておく。そして、それを翌日食べ切ることが出来なくても、数日置いてよく昆布が沁みたものを和え物にしても美味しい。

鯛は、新鮮なお造りはもちろん美味しいのだけれど、軽く昆布で締めたものも、水分が抜けて味が凝縮し、そこに昆布の旨味が加わって、フレッシュなものとは違った美味しさが有る。昨日見つけた天然物の鯛のサクは、昨夜昆布締めにし、半日経ったところでお刺身にした。

菊の葉を模した皿は、京焼、千家十職(せんけじゅっしょく)に名を連ねる永楽窯のもの。永楽は代々、善五郎を襲名する。この皿は11代 保全(ほうぜん)が善五郎を退いて12代 和全(わぜん)が善五郎を継いだ後、隠居名として一時期名乗った善一郎の頃のもので、箱裏に永楽印と共に、善一郎の名が在る。そして、5枚組の皿、本体の印は河濱支流(かひんしりゅう)だ。

元々、初代 宗全は奈良の西京西村に住み、春日大社の供御器を作って西村姓を名乗っていた。晩年、武野 紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師 善五郎を名乗るようになった。2代は堺、3代の時に京へ移り、小堀 遠州の依頼を受けた時に宗全の銅印を拝命し、以降9代まで宗全を名乗った。天明の大火で印と屋敷を失うが、10代 了全が三千家の援助を受けて再生。千家十職となるのもこれ以降の事らしい。

そして、11代 保全が1827年に紀州藩10代藩主 徳川 治寶の別邸の御庭焼き開窯に招かれた時に、河濱支流の金印と、永楽の銀印を拝領した。それ以来、代々、永楽の印を使い、12代 和全の代から、西村を改め永楽姓を名乗るようになった。遡って了全、保全も永楽の姓で呼ばれているのだそうだ。

と、その金印で押された、のであろう河濱支流の印が在る菊の葉の皿。その金印は以後、代々受け継がれているそうだ。だが、永楽の印は各代でそれぞれオリジナルを作る。そのため永楽の印を見ればどの代、誰の作品かが判る。

いつの時代だろうこれを所持していた誰かが、この善一郎の名と、保全の永楽印の在る、厚い杉の盛蓋の立派な箱に、『黄薬 菊葉形 中皿』と書いている。皿、と言えば皿だけれど、少し大振りながら、私には向付に思える。優雅な曲線が美しい輪郭。盛られた料理を包み込む見込みの深み。落ち着いた黄薬の色。茶懐石の四つ碗と共に向付として使ったら、薄暗い茶室でさぞ映えるだろうと思う。そんなイメージで鯛の昆布締めを盛ってみた。

器 黄薬 菊葉形 平向 五枚組 径20×14,5cm 高6cm

作 永楽 善一郎(保全)

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No.63 梅干し

 庭の紅白の梅が満開だ。晴れた青い空によく映える。まだ冷たい空気に漂う梅の香が清々しい。

繊細ながら力強い絵付けの蓋物は、不老軒 亀寿 (宮田 亀寿)のものだ。蓋の盛り上がりが高くてボリュームが有り、蓋をした状態だと上部から底の高台にかけての緩やな曲線。祥瑞の縁の太い一文字の紋が、この柔らかい形を引き締める。絵付けはしっかりした呉須の色で、繊細ながら力強い筆使いの松竹梅の絵柄。有無を言わせない、完結した姿が出来上がっていて、私は見るたびに惚れ惚れする。

亀寿は父の教えでこの技を身につけたらしい。父は陶工の塩野 熊吉朗。天保の時代、有田焼の窯へ出向いて染付の技術を学び、京へ戻ってその技術を高橋 道八、仁阿弥 道八らへ伝えた事で、幕末の京焼の染付が大きく発展したのだそうだ。

器を眺めるだけで楽しめるのだが、今日は昨年漬けた小梅の梅干しを盛ってみた。前は大粒の南高梅をよく漬けたのだが、一度に一粒は少し多く、最近は小梅を漬けている。

本体の内側、口周りは他の部分より少し薄い作りになっていて釉薬を掛けず、土の肌が出ていてざらざらする。蓋側の合わさる部分にも、内側に薄い、同じ肌の持ち出しが出ていて、蓋をした時にぴったりと合わさるように工夫され、この外観が作られている。細かい、凝った作りだ。このかわいらしい丸みのある形は、作り手の技術と拘りに依るものか、と納得する。

器 染付 松竹梅蓋物  径8cm 高9cm

作 不老軒 亀寿

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No.62 雛祭りの押し寿司

 私が子供の頃、母が毎年雛祭りに作ってくれていた押し寿司がある。当時の私は食材の好き嫌いがとても多く、私が食べられる材料で、雛祭りらしく工夫してくれていたのだと思う。アイディアは、本か新聞などに載ったレシピだったのかも知れない。その押し寿司は、酢飯が二層になっていて、一層は白胡麻、もう一層は蟹が混ぜ込んであった。一番上は炒り卵。ケーキのような見かけが可愛らしく、苦手な食材も入っていない、年に一度の私の楽しみだった。作り手としては、もっと色々入れて作りたかったのだろうなあ、と今は思う。だがその頃は人参も椎茸も大葉も、生魚も食べなかった娘のために考えたのだろう。暫く前から、私は昨年の雛祭りで掲載したばら寿司 (No.10) を作っている。今や偏食も無くなり、何でも美味しくいただくので欲張りなばら寿司だ。 でも、今年はこの押し寿司を作ってみたくなった。

一層目は大葉と酢蓮根、二層目は蟹と白胡麻。酢飯も少しバリエーションを付けて、トッピングに海老も飾った。雛飾りにある菱餅ほどの色の差は付けられなかったけれど、当時のことを思い出しながら、今も健在な母と桃の節句を祝った。

この備前焼の銅羅鉢、備前の土を使っていながらこの薄さ。垂直に立ち上がった壁面も、底面もこの厚さなので備前の鉢とは思えないくらい軽量だ。持ってみるとその軽さに驚く。備前焼作家さんの作品だともう少し土を多く使ったものが多いが、これを作ったのは、北大路 魯山人。料理を盛る側の器作りの美意識、使い勝手の拘りを感じる。

器 備前土 銅羅鉢 切立形 径23,5cm 高6,5cm

作 北大路 魯山人

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No.61 ボンボンショコラ

 美しい色と愛らしい姿に眼を奪われる。まるで和菓子の練切りのように見えるがチョコレートだ。バレンタインに知人からいただいたもので、ホテル、レストランを併設する、結婚式場としても有名な所のものだ。華麗で雅な、訪れると都会の喧騒から別世界に脚を踏み入れたような感覚に陥る。

チョコとは解っていても、眼を奪われてすぐには手が出ない。何に、どう盛ったら素敵だろうかと暫く考えた。それぞれひと粒ごとの美しさが際立ち、でもこのボンボンショコラに負けない存在感の器。陶器、磁器、ガラス、どれも質感が際立たないなあ、と考えあぐねて結局、漆器に行き着いた。

この銀彩の漆の皿の作者は不明だ。作者の明記は本体にも箱にも無い。ただ、皿の裏、高台の中に書かれていたのは『和田酒宴の盃 鶴岡別當 所持の写』皿ではなく盃だ。和田の酒盛というのは、歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなっているらしいが、三昼夜に及ぶ長いものだったと言われている。場所は、相模国山下宿河原、今の神奈川県平塚市山下の辺りだそうだ。

別當(べっとう)というのは鎌倉の鶴岡八幡宮の長官のことを指す役職名だそうなので、ここで言う別當が誰なのかは、私には判らない。少し調べたら、この盃(写の元となった原物)については、守貞漫稿(もりさだまんこう)という、江戸後期の三都、江戸、京都、大阪の風俗や事物を説明した辞典の様なものに、記載が載っている。著者は喜多川 守貞で、起稿は1837年(天保8年)、それから30年書き続けて全35巻にもなるらしい。その、守貞漫稿 後集 巻の一 にこの図柄の盃が絵入りで記載がある。その図には、径が五寸二分と有るので、大きさもほぼ同じだ。その後の歴史の中で、誰がどの時代にこの写を作ったのだろうか。江戸の頃か、新しくても明治だろうか。

少し調べただけで奥深いストーリーが浮かび上がり、私の手には負えないのでこの位にしておく。が、そんな盃の写しだったとは。漆の軽い盃ながら、そんな歴史物語を垣間見てしまうと、この盃の重みが何十倍にも感じられる。

真塗りに銀彩で波と兎、月と雲。漆黒の闇に、月の光に照らされて、立つ波頭の上を跳ねる兎が愛らしい。お菓子を盛って菓子皿として使ったが、本来は酒を注ぎ、この見込みの風景を眺めながら酒を酌み交わしたのだろう。恐れ多いけれど、いつか私も味わってみたいと思う。

器 銀彩蒔絵 盃 径15cm 高2,5cm

作 不明

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No.60 鰆の味噌漬

 立春が過ぎ、冷たい空気の中に少しだけ春の気配を感じる頃。気がつくと、いつの間にか夕方の時間が長くなり、庭の紅梅も開き始めている。

満開の梅を描いた角皿に、春の魚と書く鰆の味噌漬けを盛った。数日前に、蜂蜜味噌で漬けておいたものだ。蜂蜜味噌は、以前それを使ったアレンジ料理の本を見てから、自作の味噌で作って常備している。魚の切り身や肉、チーズなどを手軽に漬けるのに便利だ。

鰆。字を見て旬は春先と思っていたが、関東と関西で認識されている旬の時期が違うという。関東は12月から2月、関西では3月から5月。鰆は春、産卵のために外洋から瀬戸内海に集まって来るため、関西ではこの時期を旬としていたのだそうだ。分類ではスズキ目、サバ科、サワラ属。鱸も鯖も鰆も親戚という事なのだろうか、味は随分違うけれど。鰆は出世魚で名前も関東と関西で少し違う。関東では体長50cmを境に、サゴチとサワラを使い分け、関西ではサゴシ、ヤナギ、70cm以上をサワラと呼ぶ(旬の食材百科)らしい。

淡白な鰆は西京漬が多いけれど、コクのある味噌漬けの方が私は好きだ。付け合わせは、真白な石川の蕪で甘みを控えたなますにした。柚子の香りが味噌漬けの魚を引き立てる。

角皿は九谷焼で、絵は伊東 深水(1898-1972)が描いている。大正、昭和の日本画家。美人画が人気で、美人画の要望が多過ぎて他の画題に取り組めない時期もあったらしい。娘は宝塚歌劇団出身の舞踊家、歌手、女優でもあった朝岡 雪路さんだ。深水は、陶器の絵付けは本職ではないが、昔は絵師や僧侶などが焼き物に絵や文字を入れた合作もよく有った。これも深水が九谷を訪れた時の数少ない合作だろうか。

皿の裏、高台の中に見込みの梅と同じ朱で、九谷の青泉窯の名と共に『此君汀』(しくんてい)と入れている。此君汀は、深水が自分で出来が良く、気に入った美人画などの作品にのみ使う名だと言われている。この皿も、ご本人の満足の行く仕事だったのか、と有難い気持ちで眺める。見込みいっぱいに描かれた満開の花が華やかで、今にも梅の香が薫って来るようだ。

器 伊東 深水画 梅花角皿  径20cm 高5cm

作 九谷青泉窯

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No.59 チョコレート と コーヒー

街に美しいチョコレートが並ぶ季節。毎年バレンタインデーが近付くと見られる光景だ。どれも工夫を凝らした意匠とパッケージで目移りする。一時期の義理チョコの風習も薄れ、友達への気軽なプレゼントや、家族、自分で楽しむために選ぶ人が多くなったようだ。私は特にスウィーツ好きと言う訳ではないが、やはり時々美味しいチョコが食べたくなる。コーヒーを淹れて、口の中で蕩けるカカオの香りを楽しむのは、とても贅沢な時間だ。

人気店に行列するデパ地下も一通り見たけれど決められずに、結局、地元の蜂蜜を使ったスウィーツ屋さんのトリュフにした。トリュフを盛ったガラスの皿は日本のもの。特に名のあるガラス作家さんや、薩摩切り子や江戸切り子、と言う物ではなく、多分昭和初期頃の切り子細工だろう。どこかの古道具屋さんで大分以前に購入したもので、素朴な味わいの有る皿だ。

今回の主役はシェリー(Shelley)のカップアンドソーサー。主張の強いアール・デコの特徴的なデザインで、1930年頃のものだ。シェリーは、それまでの紆余曲折を経て、Percy Shelleyが経営者となり、1910年にイングランドで誕生した窯だ。最盛期は1925〜1940年とされ、第二次世界大戦前までだったらしい。このカップアンドソーサーはシェリーの最盛期で、時代もアール・デコの真只中の頃に作られた、ということになる。

シェリー窯が全てアール・デコデザインと言う訳ではなく、もっと優美な花柄のモチーフの物も多く有る。カップアンドソーサーにはシェイプで名前が付けられていて、同じシェイプで違う絵柄や色を纏ったバリエーションが作られていた。この、鋭角的なシェイプと前衛的な持ち手のカップアンドソーサーは、ヴォーグシェイプと呼ばれる。

器 Shelley(England) VOGUE shape カップアンドソーサー カップ径7,5cm 高6,5cm ソーサー径12cm