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No.75 白海老と空豆のから揚げ

 衣を付けて油で揚げる、という調理法は食材を、特に野菜を加熱して食すには、その風味を最大限に味わうことが出来る手段ではないかと思う。衣が膜となって中の食材の旨味を逃さず、中は蒸された状態になっているのだそうだ。前に何かの番組か雑誌で、老舗の天麩羅屋さんのご主人が話しておられるのを見て知った。なるほど、と納得した。アスパラなどの野菜を天麩羅にしたら、風味がしっかり感じられてとても美味しい。

 今の時期、鮮魚店で白海老を見かけるとつい買ってしまう。白海老のかき揚げは間違いなく美味しいし、私はガーリックを効かせて白海老と空豆のパスタも気に入っている。だが、今日はその2種の食材をから揚げにした。空豆のから揚げは、以前とても凝って、毎日のように作った事がある。天麩羅と同じ原理で、揚げた空豆は茹でたり焼いたりしたのとは違った、ほくほく感と香りが楽しめる。衣を重くしたくなくて、片栗粉だけを軽く塗して揚げてみたら、食べたかった味に出来上がった。塩を少し付けて、揚げたての熱々を食べる。揚げたてに限る。それが気に入って、4、5日作り続けた記憶がある。生の空豆の鞘はともかく、一粒ごとの皮を剥くのはかなり面倒くさいのだが、食べたい一心。それを思い出して、久しぶりに作ってみた。

 白海老の淡いピンクと空豆のグリーンが、土臭さのある素朴な陶器の皿に良く映える。皿は黄瀬戸。隅入り(すみいり)と呼ばれる角を落とした意匠は、隅入り角紋と言って家紋のデザインでも縁取りなどで使われている。平皿なのだが、底面の両端が少し浮いている。裏を見ると中央に丸く釉薬の掛からない切り取られたような部分があって、その丸い部分が卓に接地する。不思議な作りだと思ったが、これは角皿ではあるが轆轤で作った名残りだと言う。もしかしたら、桃山時代?などと期待と夢が膨らむ。

器 黄瀬戸角皿 径20x11cm 高3,5cm

作 不明

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No.74 糠漬け

 私は大人になるまで、いわゆる漬物はほとんど食べたことがなかった。前にも書いたが、私の母は漬物が苦手で、家では母が作る軽く塩で揉んだだけの浅漬けしか出て来なかった。私も自然としば漬け、糠漬け、たくあんの類は食わず嫌いとなっていた。が、働き始めて外食の機会が増え、国内外問わず出張で色々な地域の食を知るようになり、漬物だけでなく殆どの好き嫌いが無くなった。

とは言え、漬物は自分で漬けたことはなかった。しば漬けや水茄子の漬物は好きで、買って食べてはいた。でも、糠漬けは特に好きだった訳ではない。それがなぜか1年ほど前から時々食べたくなる事があった。酸味が強いのは苦手で、売っている糠漬けには手を出せずにいた。そんな時、MUJIで糠床がパックで売られているのを見つけた。容量の多いものの他に、その補充用に売られている少量のパックが有り、試してみる事にした。お弁当箱ほどの容器に丁度良いくらいの少量の糠は、糠床として完成しているので、野菜をただ漬けるだけ。最初の糠漬けステップとしては気軽に始められる。それを何度か繰り返していた頃、筍の季節がやって来た。送られてくる筍を茹でる準備として、お米を注文するタイミングでお米屋さんに米糠を分けてもらえるか聞いてみたら、最小単位で500g。筍を茹でるのに使うには多すぎる量だけれど仕方がない。筍が来ても準備万端、と思って待っていたら到着した筍には茹でる時に使う米糠がちゃんと入っていた。とても親切だ。結局、筍は一緒に来た米糠で茹で、使わなかった500gの米糠をどうしたものか、と考えながら数日経った頃、この際、糠床を作ってみてはどうだろう。と思い付いた。

ネットで糠床の作り方を調べたら、米糠、塩、水の他に煮干しや昆布、鷹の爪、実山椒を混ぜて、捨て漬けなどしながら三週間ほどかかる。保存食作りは好きだし材料も有る。何よりやってみたい気持ちが高まり、早速トライした。そして無事、レシピ通りに初めての糠床が出来上がり、本漬けを始めて早くも数週間が経った。まだまだ好みの味も定まらず、迷いながらだけれど、塩も馴染んでまろやかになって来た糠床。少量ずつ色々な野菜を漬けて楽しんでいる。食卓に一皿増え、彩りと味覚のバリエーションが加わって楽しい。

胡瓜、人参、蕪の糠漬けを盛ったのは、仁阿弥 道八の鉄絵の小皿(No.28の回で刷毛目のぐい呑みを使用)。素焼きの素地に白薬を掛け、それに鉄釉の濃茶で絵を描き、更に釘で線描きをして下の層の白を出す。色を加えるのではなく、削るのだ。そう言えば昔、図工の授業でクレヨンを塗り重ねて釘で絵を描いた事があった。あの技法だ。絵高麗(えごうらい)と呼ばれるこの皿は、中国や朝鮮で作られていたものが日本に伝わった。伝わって来たのが朝鮮からだったために、この名が付いたそうだ。柔らかい表面感と大らかな絵柄に、瑞々しい漬物が美味しいそうに映る。さて、次は何を漬けよう。出始めた泉州の水茄子を買って来ようか。

器 絵高麗小皿 径11,5cm 高2,5cm

作 仁阿弥 道八

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No.73 アスパラガス

 柏の葉を模った皿。葉脈がくっきりと盛り上がり浮き出している。裏には脚が3本。葉の縁が抱え込むように立ち上がり、葉脈に沿って緩く弧を描く。皿だけ見るとまるで彫刻のようだ。これは、交趾(こうち)と呼ばれる技法の陶器で永楽 妙全(14代 善五郎である得全の妻で本名は悠。以前No.23,65の回でも使用)のものだ。

交趾の名前の由来は江戸時代中頃、交趾船という現在のベトナムのコーチシナ(交趾支那)から東南アジアを結ぶ貿易船によって長崎にもたらされたのでこう呼ばれるようになったらしい。そのため、長い間ベトナムから来た陶器と思われていたのが、近年になって中国福建省南部で作られていた事が判ったそうだ。

当時、貿易船によってもたらされる最先端の中国文化は京都の公家や僧侶、文化人に大きな影響を与えた。交趾焼は茶人に好まれお茶席で使われるようになり、その頃生産が増えて来ていた京焼きがその技法を模して、その後京焼のひとつの手法として定着したものらしい。広くは、中国の三彩などで建築物を飾る陶器の人物像なども交趾と呼ぶらしいが、日本では器や花器の表面に、生地で盛り上がる細い線の模様を作り、そこに黄、緑、青、紫、白を使って彩色したものを指すことが多い。この皿は、彩色はせずに一色で仕上げている。

この柏の意匠の皿は、永楽 善五郎の他の代でもよく作られていて、大きさが少し違ったり、色が違う。本で調べたら、11代 永楽 善五郎、保全のもので萌黄色の五枚組のものを見つけたが、それはこの皿に比べてひと回り大きい。

我が家のこの皿は揃いではないが、一枚だけ見ても迫力がある。今が旬の太くて色鮮やかなアスパラを盛ってみたら思った通り、この深い紫色に映える。軽く茹でたアスパラは、そのままでも美味しいけれど、今日は茹で卵とケッパーを細かく刻んでタルタルソースを作った。鮮やかな色と鼻に抜けるアスパラの香りを楽しんだ。

器 紫交趾釉柏葉皿 長25,5cm 幅14cm 高5cm

作 永楽 妙全

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No.72 ピクルス

 昔、就職して働き始めて少しした頃、同期の仲良し4人でいつもお昼休みにお弁当を食べていた。地方出身のひとりを除いて私達3人は実家組。母親が作ってくれたお弁当だ。その実家組の中のひとりのお弁当に、時々ピクルスが入っていた。胡瓜のピクルスだ。私の母は漬物嫌いで、ピクルスどころか和食の漬物さえ食卓には出て来ない。一切れ貰って食べてみたら作ってみたくなり、その友人に頼んでお母様にレシピを教えていただいた。

そのレシピは、砂糖を使わずさっぱりしたものだったが、好みで砂糖を、と添書きがあり、少し甘めの味付けに工夫して我が家の定番となった。時代と共にピクルスもメジャーになり、様々なレシピや、ピクルス用にブレンドしたハーブ&スパイスも出回っているが、私が作るのはいつもこのシンプルな味だ。漬ける野菜は昔に比べて種類が増えた。胡瓜はもちろん、カリフラワーにセロリ、人参、今の時期だけ出回るヤングコーンはピクルスにしてもシャキシャキの歯触りで美味しい。色とりどりのパプリカを入れることも多い。ガラスの瓶に彩り良く詰めると、見た目も美しく冷蔵庫を開けて目に入った時も楽しめる。

 ペイズリーの様な形の皿はPOOLE(プール)。POOLEは、1873年、イングランド南西部の海沿いドーセット(Dorset)地方のプール港近くの岸壁に作られた陶器メーカーだそうだ。Susie Cooper(スージー・クーパー)ほど日本では知られていないが、同時代にイングランドの陶器メーカーとして生産されていたブランドだ。時代背景もあり、1920年代の頃はPOOLEもデザイナーを入れてアール・デコのデザインの皿や花器を作っている。私はこのアール・デコ期のものが好きで、他のPOOLEの製品はよく知らないのだが、調べてみたらロンドンの地下鉄の駅のホームの壁に使われ、駅名を示すタイルなども作っていたと言うから、食器や花器だけでなく幅広い意味での陶器メーカーなのだろう。

厚手の滑らかな素地、ぽってりした重量感、マットな表面が特徴で、簡素ながら可愛らしい花が描かれている。見ているだけで気持ちが温かくなる。食物を盛らなくても、テーブルに置いて小物入れとして眺めるのも楽しい。

器 花柄小皿  径18cmx8,5 高2cm

作 POOLE

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No.71 中華粽(ちまき)

 端午の節句。五節句のひとつで、菖蒲の節句とも言われるそうだ。端、は最初という意味があり、5月の最初の午の日を指す。現在はグレゴリオ暦で毎年5月5日と決まっている。女の子の雛祭りに対して男の子の成長を願う日として定着しているが、今の時代、子供とはいえここまではっきり男女の区別をするのは躊躇したりもする。が、これらは日本で奈良時代に始まった風習だ。文化として深くこだわらずに受け継いで行きたいものだ。

この日に食すのは、柏餅や餅を甘く味付けて笹の葉で巻いたちまき。これは日本の風習で、中国では餅米を竹の皮で包んだ粽を食べることも有るらしい。昔、よく作った中華粽を久しぶりに作ってみた。餅米と豚肉、筍、干し椎茸、干し海老、中心にはうずらの卵。簡単に出来るつもりが、竹の皮で包む所まで来て苦戦した。包み方は覚えているのだが中々上手くいかず、料理も普段からの訓練なのだと感じる。

この脚付きの青磁の鉢。箱には『青磁石菖鉢』と有り、以前の持ち主が札を付けている。このような鉢は、本来食物を盛るのではなく立花など花を生けるためのもの。中国、元の時代の物で、根津美術館蔵のものとよく似ている。花器なのは解っているけれど、粽を盛ってみたくなった。ちょうど食べたいと思っていたところだ。

3本の脚に支えられて、大きく開いたこの青磁の鉢は、天竜寺青磁とよばれるものだ。天竜寺船によって日本に渡って来たことに由来してそう呼ばれると言う説が一般的だ。そういえば日本史の教科書でその名が出て来た記憶がある。調べると、中国浙江省の竜泉窯(りゅうせんよう)で作られた青磁のひとつの様式で、室町幕府が、天竜寺造営のため明に派遣した貿易船が、この種の青磁を大量に持ち帰った事からこう呼ばれるようになったと。だが一説には、夢窓国師が天竜寺に伝えた香炉が高名だったため、との説もあるらしい。どちらにしても危険な船旅ではるばる大陸から海を渡って来て、長く大事に扱われて来たのだと思うと感慨深い。

青磁の色味は、もっと青が強かったり、黄味にに濁っていたりする物も多いけれど、この鉢の沈んだ緑の透明感と深味のある色合いが美しい。

器 青磁石菖鉢 径27cm 高9,5cm

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No.70 鰹の漬け丼

 初鰹と呼ばれる春先の鰹は、3月から5月にかけてが季節。鰹には二度旬が有って、初鰹と秋口の脂が乗った戻り鰹。どちらも美味しいのだが、私は調理法として、たたきよりお刺身が好きなので、どちらかと言うとさっぱりした赤身の初鰹が好きだ。

きれいな赤身の鰹が手に入ったので漬け丼にした。刺身を丼にする時は、少なめに酢の入った寿司飯にするのが好みだ。酢漬けの蓮根を刻んだものと白胡麻を混ぜた寿司飯に、刻んだ大葉と細葱、おろし生姜。鰹をたっぷりと載せた。しっとりとして舌触りも良く、大きな鰹の切り身があっと言う間に無くなった。

この呉須赤絵の、豪快な力強さを感じる鉢は、12代 永楽 善五郎(永楽 和全 1823-1896)のもの。和全は、明治に入った頃から息子で、当時既に善五郎を譲っていた14代の善五郎(永楽 得全 。No.23,65で使った永楽 妙全は、得全の妻)と共に多くの作品を作ったとされるが、その中でも特に呉須赤絵の評価が高かったと言う。この鉢が息子、得全と共に作陶した頃の物かどうかは不明だが、そう聞くと得全の作、ひいては代々の永楽の呉須赤絵を並べて見てみたくなる。

我が家では、本家の中国の呉須赤絵も所持している。勿論それはそれでとても良いのだけれど、この鉢にはまるで違った美しさが有る。地肌にかかる白い釉薬の透明感、赤と緑の色の鮮やかさ、かなり薄れてはいるが金も所々に残っている。曲線を描きながら、緩やかな八角形の輪郭。高さのある高台も八角形で、まるで李朝の皿を思わせるが、本家の呉須赤絵には無いディテールで作者の独創性が生きている。器を真横から見ると、高台から上に向かって柔らかい膨らみで開いて口へと繋がる。見込みには底に呉須で大らかな筆使いの大輪の花が描かれていて、ほっ。と優しい暖かみを感じる。

器 呉須赤絵 鉢 径15cm 高10cm

作 12代 永楽 善五郎(和全)

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No.69 うどのきんぴら

 うど(独活)を一本買うと、一度では全部食べ切る事が出来ないので、何度かに分けて使うことになる。その度に剥いた皮を取っておいて、一本分が溜まったところできんぴらを作る。うどの香りを楽しめる春にしか味わえない料理だ。皮は身の部分より繊維が硬いので、細く切って水に晒して灰汁を取る。加熱してもシャキシャキした食感はそのままだ。この色なので見た目に春らしさは無いけれど、有ると食卓が楽しくなる。

この初代 清風 与平の鉢は深さがあって、白磁の透明感のある肌が、見た目の地味なうどのきんぴらを明るく引き立ててくれる。しっかりとした呉須の色。少し流れて滲んでいるが、返ってこの絵の印象を柔らかくしている。

この絵は何を描いているのか、定かではない。が、絵の中に『記礼』の文字が見える。調べてみると『記礼』『礼記』とは、中国の戦国時代から前漢時代の頃の礼学関係の文献をまとめた、とされる経典で五経のひとつらしい。『記』は『経』に対する補足、注釈の意味が有る、と。詳しい内容は難しくて解らないが、その礼記に登場するどこかの場面を描いたものと推測出来る。

清風 与平はいわゆる文人だ。文人とは、ウィキペディアによると、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問をよく修め文章をよくする人」とある。清風 与平は煎茶道具を多く作っていて、精通した儒教の書物の物語を題材にした絵付けも多い。不勉強の私には想像することしか出来ないが、煎茶は中国から日本に伝わったという事を考えると、その背景にある文化の奥深さを感じる。

器 染付け 鉢 径13cm 高8cm

作 初代 清風 与平

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No.68 筍のバターソテー

 筍の季節。毎年届く福岡県合馬のものだ。今年の筍も柔らかくて香り高い。筍ご飯や、お出汁で炊いた筍をいただくと、風味と歯触りが格別だ。たくさん炊いて一度に食べ切ることができなくても、翌日はしっかり味の沁みた筍が味わえる。その筍の煮物を朝食にバターソテーにしてみた。筍には味がついているからバターだけで少し焦げ目が付くくらいにゆっくりソテーする。バターの風味と筍についた焼き色の香ばしさで、思った通りの美味しさだ。

半月前までまるで針金のように細いただの棒だった庭の山椒の木。小さい緑の粒のような葉の芽が出始めたのが10日程前だったろうか。その粒が少し大きくなり、葉の形になり、日々眼を見張る速さで料理に使える大きさの葉に育った。今年は家の山椒は筍には間に合わないだろうと思っていた。その私の諦めを感じたのだろうか、自然のパワーには驚かされる。おかげで摘みたての山椒の香りを添えた、贅沢な筍料理を味わった。

 蓮の葉を象った古染付の皿。目立たないが、表面に印刻で葉の葉脈が入っている。呉須で描かれているのは風景。崖のような山肌と、小さい丘に向かい合って座る二人の人物。見込みには上手く窪みが作られて料理が盛りやすい。皿は左側が右側より大きく張り出している分、右側は少し高く、まるで持ち手のように皿の端が柔らかく反り、料理を盛った時の左右のバランスが良いと感じる。

皿の裏には脚ではなく、渦巻き状に付けられた高台がある。ゆるく舞いた蚊取り線香のようだ。蓮の茎は真っ直ぐだけれど、この高台は葉から続く茎を表現したものか、と思ったりしている。

器 古染付蓮葉向皿 五枚  径19,5×12,5cm 高3,5cm

 

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No.67 苺のタルト

 今月が誕生月の私。ひさしぶりにこのタルトが恋しくなって買いに行ってきた。昔から、このお店の一番のお目当てはブルーベリーだった。以前はいつも有ったのだけれど近頃は季節の一時期にしか作らなくなってしまっていて、残念ながら買えなかった。それで今回は今が旬の苺のタルトにした。鮮やかな赤い苺は見ているだけでも元気が出る。サクサクの生地に軽めのカスタードクリームが載って、甘酸っぱい苺を引き立てる。

普通のケーキ皿では窮屈そうなので、マイセン(MEISSEN)のミート皿に盛った。アンティークと言うほど時代を経てはいないけれど、ドイツがまだ壁によって東と西に隔てられていた頃のものだ。色とりどりの可憐な手描きの花、縁の優雅な曲線を金で縁取取ったこの皿は、軽やかで普遍的な美しさを感じる。マイセンでは『散らし小花』と呼ばれるこの柄、我が家でカップアンドソーサーも所持している。近年作られたそのカップアンドソーサーとこのミート皿を比べると、同じ柄でも時代の違いで雰囲気が異なる。職人固有の筆使いの差も有るだろうが、絵付けの色使いや発色、モチーフの花のディテールが柔らかい。

以前、No.24の回でもケーキ皿を使ったが、マイセン窯の歴史は300年以上前、17世紀に始まる。マイセンの日本語版公式HPによると、当時まだヨーロッパには磁器を焼く技術が無く、中国や日本の伊万里焼が珍重され、人気が高かった。ヨーロッパ諸国の王侯貴族や実業家は、白くて薄く、艶やかな硬質磁器の製法を見つけようと知恵を絞っていたそうだ。

中でも、元々東洋磁器の蒐集家でもあったドイツのザクセン選帝侯アウグスト強王が最も熱心で、錬金術師のヨハン フリードリヒ ベトガーを監禁して、その製法を研究させた。ベトガーは1709年に遂に白磁の製法を解明し、翌年の1710年、ヨーロッパ初の硬質磁器 マイセン窯が誕生した。その後、アウグスト強王は、交易品として価値のある硬質磁器の製法が他国に漏れないようにと、功労者であるベトガーを幽閉してしまった。監禁されて成果を出して、解明した挙句にまた幽閉とは、なんと辛い話だろう。

アウグスト強王の情熱と、功労者で犠牲者でもあったベトガー。マイセン窯には食器だけでなく食卓や室内を飾る精巧で美しい彫刻も多く、長い歴史を経てその意匠と技術が今に伝えられている。何気なく使っている陶器や磁器にも、その開発や発展に携わった人達の情熱と努力、そして犠牲も有ったのか、とそれを成し遂げてきた先人達の苦労を思う。

器 散らし小花 ミート皿  径23cm 高3cm

作 MEISSEN

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No.66 花見酒

 昨夜の強風で飛ばされたのであろう桜が一輪、家の裏庭に落ちていた。散り始めた桜の花びらが風に舞い、この季節ならではの優雅な風景を楽しんでいたら、この盃を思い出した。風に舞い踊る花弁のように筆が動くのだろうか、朱で書かれた花の字が美しい。こんなに華やかで優しい器を作る、小山 冨士夫という人はどんな陶芸家だろうかと調べてみた。

陶磁研究家で陶芸家 小山 冨士夫(1900〜1975)は、亡くなられた頃には日本陶磁協会理事、東洋陶磁学会常任委員長という肩書きを持つ、お堅い研究者という印象だった。

1900年(明33)岡山に生まれ、幼少期に東京 麻布に転居し、家族と共に教会にも親しんだという。東京商科大学(現 一橋大学)在学中に、社会主義運動に共鳴し、中退して一時期カムチャツカへ渡ったが、大正12年の関東大震災で帰国。教会の救済事業に従事した後、志願して一年間、近衛歩兵部隊に入隊した。私が調べた内容としては、ここで知った人の影響で陶器に興味を持った、という。これまで陶芸とは無縁だったと思われる小山 冨士夫の、その後の人生を陶芸とその研究に向かわせたきっかけとはどんなものだったのだろう。除隊後、京都 山科の真清水 蔵六(ましみず ぞうろく)に弟子入りし、京の古い窯跡の調査や朝鮮半島、中国への旅を経て自らも独立して作陶を始める。そしてその後も多くの陶工や陶磁研究者との交流を経て日本や東洋の陶磁器の研究を進め、多くの研究書や古陶磁全集などをまとめた。と、かなり堅い話になってしまったが、この作者はそういう方だったらしい。

それを知って、改めてこの酒器を見ると作者の小山 冨士夫さんはどんな方だったのだろう、と興味が湧いてくる。細かい調査や山のような資料に囲まれている研究者と、この優しい酒器を作った陶芸家がなかなか重ならない。

器 花酒器 径8,5cm 高3,3cm

作 小山 冨士夫