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No.72 ピクルス

 昔、就職して働き始めて少しした頃、同期の仲良し4人でいつもお昼休みにお弁当を食べていた。地方出身のひとりを除いて私達3人は実家組。母親が作ってくれたお弁当だ。その実家組の中のひとりのお弁当に、時々ピクルスが入っていた。胡瓜のピクルスだ。私の母は漬物嫌いで、ピクルスどころか和食の漬物さえ食卓には出て来ない。一切れ貰って食べてみたら作ってみたくなり、その友人に頼んでお母様にレシピを教えていただいた。

そのレシピは、砂糖を使わずさっぱりしたものだったが、好みで砂糖を、と添書きがあり、少し甘めの味付けに工夫して我が家の定番となった。時代と共にピクルスもメジャーになり、様々なレシピや、ピクルス用にブレンドしたハーブ&スパイスも出回っているが、私が作るのはいつもこのシンプルな味だ。漬ける野菜は昔に比べて種類が増えた。胡瓜はもちろん、カリフラワーにセロリ、人参、今の時期だけ出回るヤングコーンはピクルスにしてもシャキシャキの歯触りで美味しい。色とりどりのパプリカを入れることも多い。ガラスの瓶に彩り良く詰めると、見た目も美しく冷蔵庫を開けて目に入った時も楽しめる。

 ペイズリーの様な形の皿はPOOLE(プール)。POOLEは、1873年、イングランド南西部の海沿いドーセット(Dorset)地方のプール港近くの岸壁に作られた陶器メーカーだそうだ。Susie Cooper(スージー・クーパー)ほど日本では知られていないが、同時代にイングランドの陶器メーカーとして生産されていたブランドだ。時代背景もあり、1920年代の頃はPOOLEもデザイナーを入れてアール・デコのデザインの皿や花器を作っている。私はこのアール・デコ期のものが好きで、他のPOOLEの製品はよく知らないのだが、調べてみたらロンドンの地下鉄の駅のホームの壁に使われ、駅名を示すタイルなども作っていたと言うから、食器や花器だけでなく幅広い意味での陶器メーカーなのだろう。

厚手の滑らかな素地、ぽってりした重量感、マットな表面が特徴で、簡素ながら可愛らしい花が描かれている。見ているだけで気持ちが温かくなる。食物を盛らなくても、テーブルに置いて小物入れとして眺めるのも楽しい。

器 花柄小皿  径18cmx8,5 高2cm

作 POOLE

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No.71 中華粽(ちまき)

 端午の節句。五節句のひとつで、菖蒲の節句とも言われるそうだ。端、は最初という意味があり、5月の最初の午の日を指す。現在はグレゴリオ暦で毎年5月5日と決まっている。女の子の雛祭りに対して男の子の成長を願う日として定着しているが、今の時代、子供とはいえここまではっきり男女の区別をするのは躊躇したりもする。が、これらは日本で奈良時代に始まった風習だ。文化として深くこだわらずに受け継いで行きたいものだ。

この日に食すのは、柏餅や餅を甘く味付けて笹の葉で巻いたちまき。これは日本の風習で、中国では餅米を竹の皮で包んだ粽を食べることも有るらしい。昔、よく作った中華粽を久しぶりに作ってみた。餅米と豚肉、筍、干し椎茸、干し海老、中心にはうずらの卵。簡単に出来るつもりが、竹の皮で包む所まで来て苦戦した。包み方は覚えているのだが中々上手くいかず、料理も普段からの訓練なのだと感じる。

この脚付きの青磁の鉢。箱には『青磁石菖鉢』と有り、以前の持ち主が札を付けている。このような鉢は、本来食物を盛るのではなく立花など花を生けるためのもの。中国、元の時代の物で、根津美術館蔵のものとよく似ている。花器なのは解っているけれど、粽を盛ってみたくなった。ちょうど食べたいと思っていたところだ。

3本の脚に支えられて、大きく開いたこの青磁の鉢は、天竜寺青磁とよばれるものだ。天竜寺船によって日本に渡って来たことに由来してそう呼ばれると言う説が一般的だ。そういえば日本史の教科書でその名が出て来た記憶がある。調べると、中国浙江省の竜泉窯(りゅうせんよう)で作られた青磁のひとつの様式で、室町幕府が、天竜寺造営のため明に派遣した貿易船が、この種の青磁を大量に持ち帰った事からこう呼ばれるようになったと。だが一説には、夢窓国師が天竜寺に伝えた香炉が高名だったため、との説もあるらしい。どちらにしても危険な船旅ではるばる大陸から海を渡って来て、長く大事に扱われて来たのだと思うと感慨深い。

青磁の色味は、もっと青が強かったり、黄味にに濁っていたりする物も多いけれど、この鉢の沈んだ緑の透明感と深味のある色合いが美しい。

器 青磁石菖鉢 径27cm 高9,5cm

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No.70 鰹の漬け丼

 初鰹と呼ばれる春先の鰹は、3月から5月にかけてが季節。鰹には二度旬が有って、初鰹と秋口の脂が乗った戻り鰹。どちらも美味しいのだが、私は調理法として、たたきよりお刺身が好きなので、どちらかと言うとさっぱりした赤身の初鰹が好きだ。

きれいな赤身の鰹が手に入ったので漬け丼にした。刺身を丼にする時は、少なめに酢の入った寿司飯にするのが好みだ。酢漬けの蓮根を刻んだものと白胡麻を混ぜた寿司飯に、刻んだ大葉と細葱、おろし生姜。鰹をたっぷりと載せた。しっとりとして舌触りも良く、大きな鰹の切り身があっと言う間に無くなった。

この呉須赤絵の、豪快な力強さを感じる鉢は、12代 永楽 善五郎(永楽 和全 1823-1896)のもの。和全は、明治に入った頃から息子で、当時既に善五郎を譲っていた14代の善五郎(永楽 得全 。No.23,65で使った永楽 妙全は、得全の妻)と共に多くの作品を作ったとされるが、その中でも特に呉須赤絵の評価が高かったと言う。この鉢が息子、得全と共に作陶した頃の物かどうかは不明だが、そう聞くと得全の作、ひいては代々の永楽の呉須赤絵を並べて見てみたくなる。

我が家では、本家の中国の呉須赤絵も所持している。勿論それはそれでとても良いのだけれど、この鉢にはまるで違った美しさが有る。地肌にかかる白い釉薬の透明感、赤と緑の色の鮮やかさ、かなり薄れてはいるが金も所々に残っている。曲線を描きながら、緩やかな八角形の輪郭。高さのある高台も八角形で、まるで李朝の皿を思わせるが、本家の呉須赤絵には無いディテールで作者の独創性が生きている。器を真横から見ると、高台から上に向かって柔らかい膨らみで開いて口へと繋がる。見込みには底に呉須で大らかな筆使いの大輪の花が描かれていて、ほっ。と優しい暖かみを感じる。

器 呉須赤絵 鉢 径15cm 高10cm

作 12代 永楽 善五郎(和全)

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No.69 うどのきんぴら

 うど(独活)を一本買うと、一度では全部食べ切る事が出来ないので、何度かに分けて使うことになる。その度に剥いた皮を取っておいて、一本分が溜まったところできんぴらを作る。うどの香りを楽しめる春にしか味わえない料理だ。皮は身の部分より繊維が硬いので、細く切って水に晒して灰汁を取る。加熱してもシャキシャキした食感はそのままだ。この色なので見た目に春らしさは無いけれど、有ると食卓が楽しくなる。

この初代 清風 与平の鉢は深さがあって、白磁の透明感のある肌が、見た目の地味なうどのきんぴらを明るく引き立ててくれる。しっかりとした呉須の色。少し流れて滲んでいるが、返ってこの絵の印象を柔らかくしている。

この絵は何を描いているのか、定かではない。が、絵の中に『記礼』の文字が見える。調べてみると『記礼』『礼記』とは、中国の戦国時代から前漢時代の頃の礼学関係の文献をまとめた、とされる経典で五経のひとつらしい。『記』は『経』に対する補足、注釈の意味が有る、と。詳しい内容は難しくて解らないが、その礼記に登場するどこかの場面を描いたものと推測出来る。

清風 与平はいわゆる文人だ。文人とは、ウィキペディアによると、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問をよく修め文章をよくする人」とある。清風 与平は煎茶道具を多く作っていて、精通した儒教の書物の物語を題材にした絵付けも多い。不勉強の私には想像することしか出来ないが、煎茶は中国から日本に伝わったという事を考えると、その背景にある文化の奥深さを感じる。

器 染付け 鉢 径13cm 高8cm

作 初代 清風 与平

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No.68 筍のバターソテー

 筍の季節。毎年届く福岡県合馬のものだ。今年の筍も柔らかくて香り高い。筍ご飯や、お出汁で炊いた筍をいただくと、風味と歯触りが格別だ。たくさん炊いて一度に食べ切ることができなくても、翌日はしっかり味の沁みた筍が味わえる。その筍の煮物を朝食にバターソテーにしてみた。筍には味がついているからバターだけで少し焦げ目が付くくらいにゆっくりソテーする。バターの風味と筍についた焼き色の香ばしさで、思った通りの美味しさだ。

半月前までまるで針金のように細いただの棒だった庭の山椒の木。小さい緑の粒のような葉の芽が出始めたのが10日程前だったろうか。その粒が少し大きくなり、葉の形になり、日々眼を見張る速さで料理に使える大きさの葉に育った。今年は家の山椒は筍には間に合わないだろうと思っていた。その私の諦めを感じたのだろうか、自然のパワーには驚かされる。おかげで摘みたての山椒の香りを添えた、贅沢な筍料理を味わった。

 蓮の葉を象った古染付の皿。目立たないが、表面に印刻で葉の葉脈が入っている。呉須で描かれているのは風景。崖のような山肌と、小さい丘に向かい合って座る二人の人物。見込みには上手く窪みが作られて料理が盛りやすい。皿は左側が右側より大きく張り出している分、右側は少し高く、まるで持ち手のように皿の端が柔らかく反り、料理を盛った時の左右のバランスが良いと感じる。

皿の裏には脚ではなく、渦巻き状に付けられた高台がある。ゆるく舞いた蚊取り線香のようだ。蓮の茎は真っ直ぐだけれど、この高台は葉から続く茎を表現したものか、と思ったりしている。

器 古染付蓮葉向皿 五枚  径19,5×12,5cm 高3,5cm

 

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No.67 苺のタルト

 今月が誕生月の私。ひさしぶりにこのタルトが恋しくなって買いに行ってきた。昔から、このお店の一番のお目当てはブルーベリーだった。以前はいつも有ったのだけれど近頃は季節の一時期にしか作らなくなってしまっていて、残念ながら買えなかった。それで今回は今が旬の苺のタルトにした。鮮やかな赤い苺は見ているだけでも元気が出る。サクサクの生地に軽めのカスタードクリームが載って、甘酸っぱい苺を引き立てる。

普通のケーキ皿では窮屈そうなので、マイセン(MEISSEN)のミート皿に盛った。アンティークと言うほど時代を経てはいないけれど、ドイツがまだ壁によって東と西に隔てられていた頃のものだ。色とりどりの可憐な手描きの花、縁の優雅な曲線を金で縁取取ったこの皿は、軽やかで普遍的な美しさを感じる。マイセンでは『散らし小花』と呼ばれるこの柄、我が家でカップアンドソーサーも所持している。近年作られたそのカップアンドソーサーとこのミート皿を比べると、同じ柄でも時代の違いで雰囲気が異なる。職人固有の筆使いの差も有るだろうが、絵付けの色使いや発色、モチーフの花のディテールが柔らかい。

以前、No.24の回でもケーキ皿を使ったが、マイセン窯の歴史は300年以上前、17世紀に始まる。マイセンの日本語版公式HPによると、当時まだヨーロッパには磁器を焼く技術が無く、中国や日本の伊万里焼が珍重され、人気が高かった。ヨーロッパ諸国の王侯貴族や実業家は、白くて薄く、艶やかな硬質磁器の製法を見つけようと知恵を絞っていたそうだ。

中でも、元々東洋磁器の蒐集家でもあったドイツのザクセン選帝侯アウグスト強王が最も熱心で、錬金術師のヨハン フリードリヒ ベトガーを監禁して、その製法を研究させた。ベトガーは1709年に遂に白磁の製法を解明し、翌年の1710年、ヨーロッパ初の硬質磁器 マイセン窯が誕生した。その後、アウグスト強王は、交易品として価値のある硬質磁器の製法が他国に漏れないようにと、功労者であるベトガーを幽閉してしまった。監禁されて成果を出して、解明した挙句にまた幽閉とは、なんと辛い話だろう。

アウグスト強王の情熱と、功労者で犠牲者でもあったベトガー。マイセン窯には食器だけでなく食卓や室内を飾る精巧で美しい彫刻も多く、長い歴史を経てその意匠と技術が今に伝えられている。何気なく使っている陶器や磁器にも、その開発や発展に携わった人達の情熱と努力、そして犠牲も有ったのか、とそれを成し遂げてきた先人達の苦労を思う。

器 散らし小花 ミート皿  径23cm 高3cm

作 MEISSEN

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No.66 花見酒

 昨夜の強風で飛ばされたのであろう桜が一輪、家の裏庭に落ちていた。散り始めた桜の花びらが風に舞い、この季節ならではの優雅な風景を楽しんでいたら、この盃を思い出した。風に舞い踊る花弁のように筆が動くのだろうか、朱で書かれた花の字が美しい。こんなに華やかで優しい器を作る、小山 冨士夫という人はどんな陶芸家だろうかと調べてみた。

陶磁研究家で陶芸家 小山 冨士夫(1900〜1975)は、亡くなられた頃には日本陶磁協会理事、東洋陶磁学会常任委員長という肩書きを持つ、お堅い研究者という印象だった。

1900年(明33)岡山に生まれ、幼少期に東京 麻布に転居し、家族と共に教会にも親しんだという。東京商科大学(現 一橋大学)在学中に、社会主義運動に共鳴し、中退して一時期カムチャツカへ渡ったが、大正12年の関東大震災で帰国。教会の救済事業に従事した後、志願して一年間、近衛歩兵部隊に入隊した。私が調べた内容としては、ここで知った人の影響で陶器に興味を持った、という。これまで陶芸とは無縁だったと思われる小山 冨士夫の、その後の人生を陶芸とその研究に向かわせたきっかけとはどんなものだったのだろう。除隊後、京都 山科の真清水 蔵六(ましみず ぞうろく)に弟子入りし、京の古い窯跡の調査や朝鮮半島、中国への旅を経て自らも独立して作陶を始める。そしてその後も多くの陶工や陶磁研究者との交流を経て日本や東洋の陶磁器の研究を進め、多くの研究書や古陶磁全集などをまとめた。と、かなり堅い話になってしまったが、この作者はそういう方だったらしい。

それを知って、改めてこの酒器を見ると作者の小山 冨士夫さんはどんな方だったのだろう、と興味が湧いてくる。細かい調査や山のような資料に囲まれている研究者と、この優しい酒器を作った陶芸家がなかなか重ならない。

器 花酒器 径8,5cm 高3,3cm

作 小山 冨士夫

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No.65 道明寺桜餅

桜が咲き始めた。気候が不安定でも、天災に見舞われても、どこかで争いが有っても、春は訪れる。帝や将軍が居た時代から、そのもっと以前から、桜は人々を喜ばせ癒してきた。

桜の小皿に桜餅を盛った。道明寺粉で作った関西好みの桜餅だ。その昔、道明寺で寺の保存食として作られていたとされる、餅米を蒸して乾燥させて作る干飯(ほしいい)という食物が有った。長期保存が出来る事から、戦国時代には武士の携帯食糧として用いられていたと言う。水でふやかして加熱する、などして食していたそうだ。この桜餅を包んでいる道明寺粉とは、その干飯を砕いたものを指す。その道明寺粉を再度蒸して色を付けたもので餡を包み、桜の葉の塩漬けを添えたのが道明寺桜餅だ。普通に餅米を使うより米の粒感が残り、餡と馴染むあの絶妙な食感が生まれるのだそうだ。

この桜の小皿は一世紀以上前に、永楽 明全によって作られたもの。華やかな色を使った訳でもなく、春の霞がかかったようなふんわりした桜だ。妙全は、以前 No.23 でも使っているが、14代永楽 善五郎である得全の妻で、本名のお悠さんの名でも知られ、三井家には悠の印を拝領したそうだ。善五郎を襲名することは無かったが、50歳そこそこの若さで亡くなった得全の後の永楽を支えたとされる。私は、永楽窯の中でもこのお悠さんの作品には好きな物が多い。ある物は緻密で、ある物は優雅で、作品にお悠さんの柔らかい感性を感じる。

この小皿、我が家に在るのは一枚きり。この小皿が五枚組なのか、絵がわりで組んでいたものかは判らない。小皿にしては見込みが深く、縁が高めだ。高台周りには細かい鉋目が有って、小さな皿ながら手の込んだ風格を感じる。鉄釉の濃い茶と透き通るような白の濃淡だけながら、多く色を使っているような満開の華やかさを感じる。

器 桜小皿 径11cm 高3cm

作 永楽 明全

 

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No.64 鯛の昆布締

 昆布締めは、冷蔵手段が整っていなかった頃の保存方法として、そしてその美味しさで実益を兼ねた料理法だ。最近は鯛がよくサクで売られている。養殖技術が進化した恩恵も有るだろう。お刺身好きな私は、鯛だけでなく、サクで売られている良い鮮魚を見つけると、つい買ってしまう。その日のうちに使わない時は昆布締めにしておく。そして、それを翌日食べ切ることが出来なくても、数日置いてよく昆布が沁みたものを和え物にしても美味しい。

鯛は、新鮮なお造りはもちろん美味しいのだけれど、軽く昆布で締めたものも、水分が抜けて味が凝縮し、そこに昆布の旨味が加わって、フレッシュなものとは違った美味しさが有る。昨日見つけた天然物の鯛のサクは、昨夜昆布締めにし、半日経ったところでお刺身にした。

菊の葉を模した皿は、京焼、千家十職(せんけじゅっしょく)に名を連ねる永楽窯のもの。永楽は代々、善五郎を襲名する。この皿は11代 保全(ほうぜん)が善五郎を退いて12代 和全(わぜん)が善五郎を継いだ後、隠居名として一時期名乗った善一郎の頃のもので、箱裏に永楽印と共に、善一郎の名が在る。そして、5枚組の皿、本体の印は河濱支流(かひんしりゅう)だ。

元々、初代 宗全は奈良の西京西村に住み、春日大社の供御器を作って西村姓を名乗っていた。晩年、武野 紹鴎の依頼で土風炉を作るようになり、土風炉師 善五郎を名乗るようになった。2代は堺、3代の時に京へ移り、小堀 遠州の依頼を受けた時に宗全の銅印を拝命し、以降9代まで宗全を名乗った。天明の大火で印と屋敷を失うが、10代 了全が三千家の援助を受けて再生。千家十職となるのもこれ以降の事らしい。

そして、11代 保全が1827年に紀州藩10代藩主 徳川 治寶の別邸の御庭焼き開窯に招かれた時に、河濱支流の金印と、永楽の銀印を拝領した。それ以来、代々、永楽の印を使い、12代 和全の代から、西村を改め永楽姓を名乗るようになった。遡って了全、保全も永楽の姓で呼ばれているのだそうだ。

と、その金印で押された、のであろう河濱支流の印が在る菊の葉の皿。その金印は以後、代々受け継がれているそうだ。だが、永楽の印は各代でそれぞれオリジナルを作る。そのため永楽の印を見ればどの代、誰の作品かが判る。

いつの時代だろうこれを所持していた誰かが、この善一郎の名と、保全の永楽印の在る、厚い杉の盛蓋の立派な箱に、『黄薬 菊葉形 中皿』と書いている。皿、と言えば皿だけれど、少し大振りながら、私には向付に思える。優雅な曲線が美しい輪郭。盛られた料理を包み込む見込みの深み。落ち着いた黄薬の色。茶懐石の四つ碗と共に向付として使ったら、薄暗い茶室でさぞ映えるだろうと思う。そんなイメージで鯛の昆布締めを盛ってみた。

器 黄薬 菊葉形 平向 五枚組 径20×14,5cm 高6cm

作 永楽 善一郎(保全)

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No.63 梅干し

 庭の紅白の梅が満開だ。晴れた青い空によく映える。まだ冷たい空気に漂う梅の香が清々しい。

繊細ながら力強い絵付けの蓋物は、不老軒 亀寿 (宮田 亀寿)のものだ。蓋の盛り上がりが高くてボリュームが有り、蓋をした状態だと上部から底の高台にかけての緩やな曲線。祥瑞の縁の太い一文字の紋が、この柔らかい形を引き締める。絵付けはしっかりした呉須の色で、繊細ながら力強い筆使いの松竹梅の絵柄。有無を言わせない、完結した姿が出来上がっていて、私は見るたびに惚れ惚れする。

亀寿は父の教えでこの技を身につけたらしい。父は陶工の塩野 熊吉朗。天保の時代、有田焼の窯へ出向いて染付の技術を学び、京へ戻ってその技術を高橋 道八、仁阿弥 道八らへ伝えた事で、幕末の京焼の染付が大きく発展したのだそうだ。

器を眺めるだけで楽しめるのだが、今日は昨年漬けた小梅の梅干しを盛ってみた。前は大粒の南高梅をよく漬けたのだが、一度に一粒は少し多く、最近は小梅を漬けている。

本体の内側、口周りは他の部分より少し薄い作りになっていて釉薬を掛けず、土の肌が出ていてざらざらする。蓋側の合わさる部分にも、内側に薄い、同じ肌の持ち出しが出ていて、蓋をした時にぴったりと合わさるように工夫され、この外観が作られている。細かい、凝った作りだ。このかわいらしい丸みのある形は、作り手の技術と拘りに依るものか、と納得する。

器 染付 松竹梅蓋物  径8cm 高9cm

作 不老軒 亀寿