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No.232 鞘いんげんのそぼろ和え

 美味しそうな、旬の鞘いんげんを買って来た。”絹さや” や “スナップエンドウ” など豆科の野菜は、茹で過ぎないシャキシャキの食感が好きだけれど、この “鞘いんげん” は少し気長に茹でるようにしている。過去に何度か失敗した事があるが、茹で時間が短いと皮の歯応えも悪く、青臭さが残って美味しくない。塩茹でした鞘いんげんを鶏のそぼろと和えて、八田 円斎 の向付に盛った。

『淡交』別冊の “光悦 光琳 乾山 時を超え息づく美” に掲載されている “八田 円斎の数寄風流” の中に「有職文様の三重襷を胴に巡らせた金襴手の深鉢」と紹介されている。薄手の白磁に、むらの残る朱の色を掛け、その上に金と銀で模様が描かれている。とても気品が有って美しい。以前 No.199 の回で、円斎 の “古染付写 笛吹人小皿” を使った。その時、元は古美術商で、と書いたがそもそも生家は指物師。父の腕を継承し、そちらの腕も確かな物だったらしい。後に京都で円能斎に茶の湯を学び、窯を開けば “今仁清” と言われるほど、何を作っても才能と技能を兼ね備えた人だったようだ。磁器も陶器も繊細だけれど堅苦しくなく上品。使う度に嬉しくなる。

器 金襴手 向付 五客  径11,5cm 高6,5cm

作 八田 円斎

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No.231 枝豆

 気温が定まらない時期。急に真夏のような暑さかと思うと雨が降って冷たい風が吹いたりする。三寒四温の時期はとうに過ぎたけれど、暑かったり肌寒かったりで、日々の服装に悩む。とは言え梅雨も近くなり、枝豆が出始めたのを見るともうすぐ夏だと感じる。

うぶ毛の付いた瑞々しい緑の鞘が映える、この濃い色の皿は江戸時代後期、作者は 大橋 秋ニ (1975〜1857) 。釘で彫って出来た窪みに白の土を使って素朴な花模様が白く浮き出している。小さい皿だけれど表も裏も轆轤目が際立ち、表情が豊か。作り手の上手さを感じる。

大橋 秋ニ は、愛知県津島市で稲垣家の長男として生まれ、 のちに大橋家の養子となり医者になる。茶事、画、詩歌と風流を好んだ。37歳の頃、京都の 尾形 周平 に作陶を学び、その後瀬戸、晩年は美濃養老山に窯を開き、養老焼と呼ばれた。作った作品は売る事はなく、ほぼ全て知人に送ったものと伝わっている。

器 花三嶋写 小皿  径12cm 高3cm

作 大橋 秋ニ

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No.230 ソルティドッグ

 年々、夏が長くなって今年もまだ5月というのに既に蒸し暑い。一般的に人は暑くなりかけの頃に冷たいメニューを欲するらしい。身体が慣れていないからなのだろうか。そんな蒸し暑い夕方に、久しぶりにソルティードックを作った。

近頃は柑橘類の種類が豊富で、どんどん新種が店頭に並ぶ。そのせいかグレープフルーツを見かける事が少なくなった。柑橘類が沢山並んでいるので、私が見落としているだけかもしれないが。私が子供の頃、柑橘類のバリエーションはそう多くなかった。みかん、夏みかん、はっさく、伊予柑、洋物ではネーブルとグレープフルーツ位なものだった。日本は農作物の品種改良で優れていると聞くから、苺と同じように産地のそれぞれで新作を作り出しているのだろう。輸送費も掛かる、遠い国から来るグレープフルーツは国産の新種に押されて消費が減っているのかもしれない。

とは言え、ソルティードックにはやっぱりグレープフルーツが欠かせない。搾りたてのジュースにウォッカを注ぐだけの簡単なカクテルだ。ソルティードックは、19世紀末にイギリスで生まれた “ソルティードックコリンズ” が原型とも言われていて、当時はジンとライムジュースに塩をシェイクした物だったらしい。確かにイギリスならウォッカではなくジンなのも頷ける。

名前の由来は、イギリスで “甲板員” を意味するスラングで “Salty Dog” 。潮風や波しぶきを浴びながら働くため塩っぽい彼らの事をそう呼んでいたらしい。ウォッカとグレープフルーツが主流になったのがいつ頃か、は私が調べた限りでははっきり判らなかった。しかし、その後の何度かの大きな戦争が関わっているのかもしれない。そしてジンより香りが穏やかなウォッカをベースにするならライムよりグレープフルーツの方がきっと美味しいだろうと思う。試した事はないけれど。

カクテルのグラスの縁に塩付けるのは “スノースタイル” と呼ぶそうで、見た目のお洒落さと塩加減を好みで調節出来るメリットも含めて、なるほど素敵なアイディアだと感心する。しかし、縁に美しく塩を付けるのは思ったより難しく、プロのようには行かない。ピンクグレープフルーツを使ったので、ピンク色のソルティドッグになった。

使ったグラスは Baccarat(バカラ) のローハンタンブラー。昔、友人から贈られたグラスだ。ぐるりと継ぎ目なく描かれた唐草模様はパリ万博で金賞を受賞した “アシッドエッチング”という手法によるものだそう。揺らした時に氷がグラスに当たる音も涼しさを誘う。

器 Baccarat ローハンタンブラー  径9cm 高9,8cm

作 Bacarrat

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No.229 絹さやの卵とじ

 家庭菜園で収穫した絹さやをいただいた。友人のご両親が育てているもので、以前から様々な野菜をいただいている。どれも、八百屋に並んでいる野菜と見た目も遜色なく、とても美味しい。絹さやは、付け合わせや煮物の彩り、味噌汁など何にでも使うけれど、私は塩茹でした絹さやを斜めに細く切って簡単な丼物やちらし寿司などのトッピングにするのが好きだ。シャキシャキした歯触りが良いアクセントになる。

でも、今日は新鮮で柔らかい絹さやを生かして卵とじを作ってみた。これはいつも行く八百屋さんで、ちゃま様と呼ばれるマダムに教えてもらった料理。もうご高齢で随分前に引退されたけれど、いつもきちんとメイクして、ファッションもご自身らしさの有る、素敵なマダムだった。姿勢の良いシャッキリしたお姿を見て、私もこの先、歳を重ねてもこう在りたいと思っていた。

まだ私が若かった頃、八百屋の店先で『絹さやはね、卵とじも美味しいのよ。軽く炒めて溶き卵でとじて、ちょっとお醤油を垂らすの』とちゃま様に教わった。それ以来、時々作るメニューになった。卵の黄色と絹さやの緑が目にも楽しい料理だ。最近我が家に来た水月窯の皿に盛った。

 水月窯は、昭和21年、後に人間国宝となる 荒川 豊蔵 が岐阜県多治見に開いた窯。この場所は 虎渓山 永保寺 の土地を借り受けた物で、国宝永保寺観音堂 が別名水月堂といわれることに因んで付けられたそうだ。日常生活で使いやすい器を、土作りから成形まで全ての工程を手作業で行い、薪を使った登り窯で焼成している。水月窯では、たとえ豊蔵が作ったものでも個人の名は入れないので、当時の器の中には “これは豊蔵の作だろう” という物が有ったりする。粉引、染付、色絵、唐津風、乾山風など様々な作風を作っているが、私は水月窯なら粉引が好きだ。温かみが有って、使うほどに味が出る。

今年の季節は過ぎてしまったけれど梅に鶯、鉄釉で描かれた素朴な構図の絵が楽しい。5枚組で、同じ絵柄のはずだろうけれど、かなり簡略化されて、幹と枝だけ。鶯の姿が見えない物もあり、並べてみてつい笑ってしまう。人がやる事、こんな時もあるかもね、と。

器 粉引 梅文皿  径15,5cm 高3cm

作 水月窯

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No.228 生七味

 近所の鶏屋さんで焼鳥を買って来た。焼鳥に七味唐辛子は欠かせない。瓶詰めで売っている、お気に入りの生の七味唐辛子を出した。いつもはお皿の端に置いたりするけれど、時にはちゃんと器に盛るのも気分が変わる。普段から薬味入れに使っている青磁の手桶の形の器に入れた。

お抹茶のお手前で使う水指に同じ形の物がある。真塗りの蓋が添っていて、もちろんこの器よりかなり大きい。この器は同じ形をしていて小さいだけだけれど、小さき物はなぜか訳もなく愛らしい。裏に印らしき物はあるけれど判別も付かず、どの時代に誰が作ったものかは不明。たまたま集まって来た我が家の器達と色々組み合わせて使っている。

青磁は、もっと澄んだ明るいブルーの色から、この手桶のように黄味を帯びて濁った緑、さらにもっと沈んだ深い緑まで色の幅は広い。でも、どの色の青磁でも食卓に並べると染付や漆の椀とのバランスが良く、とても使いやすい。焼鳥は古染付の皿に盛って青磁の色を添えた。

 近頃は新しい和食器もブームのようで、あちらこちらで若手陶芸家が作る、洋食にも使えそうな和陶磁器を見掛ける。家具やインテリアなどを扱う国内外の大手小売店や百均でも、格安で食器は手に入る。でも100年後、この中で大事に使われ続けている器はどれだけ有るのかしら、と考えてしまう。我が家に有る器たちは既に長い時を経た物が多く、先人達の手を渡って今ここに在る。その器たちを、小さな物でも生活に取り入れて、次に繋げて行く人も増えてくれたら良いなと思う。

器 青磁 手桶形小鉢  径6,5cm 高7cm(持手込)

作 不明

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No.227 シーザーサラダ

 よく行くパン屋さんで、食パンの端の切り落としを袋に詰めて売っていた。滅多に出会うことはないのでつい買ってしまう。家に帰って、クルトンを作る事にした。小さくサイコロ状に切ったつもりが、結構大きい食べ応えのあるクルトンになった。

本来なら油で揚げるところだけれど、カロリー控えめを考えて多めのオリーブオイルでゆっくり炒めた。完全に油が回っていないところもそれで良しとし、水分を飛ばしてカリっと。この、ボリュームのあるクルトンと、買って来たロメインレタスでシーザーサラダを作る事にした。

シーザーサラダは1924年にメキシコの ティフアナ にあるホテル“シーザーズプレイス“のシェフ、シーザー カルディーニが考案したものらしい。材料が足りなくなって、その時手元にあったロメインレタス、クルトン、パルメザンチーズで作ったのだそうだ。

自己流のシーザーサラダは、ビネガーに少しの砂糖、オリーブオイルで少量のフレンチドレッシングを作り、マヨネーズと粉チーズを加える。ドレッシングは、そのまま野菜を入れて和えるので、大きなボウルで作る。有れば生のにんにくの切り口を最初にボウルの内側に擦り付けておくと薄くにんにくの香りが加わって美味しい。洗って水気を取ったロメインレタスや好みで新玉葱や胡瓜、そしてクルトンを加えて手で和える。そのまま器に盛ったら出来上がり。クルトンは、和える少し前にもう一度炙っておくと、カリカリの食感が際立つ。レストランでいただくシーザーサラダならポーチドエッグがトッピングされているのだろうけれど、朝茹でた卵が有ったのでそれを飾った。

金の縁取りが輝くこのサラダボウルは、Susie Cooper (スージー クーパー)のもの。以前同じシリーズの皿を使った事がある(No.49  2021/12/3)。この皿のような白磁は、Susie Cooperの中でも後期で、初期の頃の厚手の皿 (No.9  2021/2/26)と、絵付けの柄やタッチはよく似ているけれど、素地の質感や色が違っているために雰囲気はとても現代的で、新しさを感じる。

器 手付きサラダボウル 径21cm 高6cm

作 Susie Cooper

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No.226 若竹煮

 今年も筍が届いた。大きな鍋2つ使って下茹でし、ひと晩置いた。たっぷりのお出汁で山ほどの若竹煮を作った。庭の山椒はかなり育っているけれど、まだ出立ての小さい葉を選んで香りを添えた。

緑釉のどら鉢に盛ってみようと、筍は大きめにした。この、北大路 魯山人 の鉢の迫力に見合うように盛り付けるのは難しい。大胆に、と鉢の声が聞こえたけれど、中々思うようには納まらない。考えていたよりはこじんまりとまとまった。試行錯誤しながらも、この鉢にどう盛ればもっと素敵だろう、と学ばせて貰った。

 箱書きには “織部 鉢” とだけある。見込みの向こう側に口から縦に “入” が有る。これは窯傷で、後から入ったものではなく金や銀の継で直しもせず、そのままを楽しんで使われて来たようだ。魯山人はこの器を鉢としているが、その後のどなたかがお抹茶の水指に見立てたようで、真塗りの漆の蓋が添っている。織部焼の緑の釉薬一色だけを使ったシンプルな鉢だけれど、口周りの釉薬は垂れて薄く、見込みの底の溜まった緑はとても深い。胴に幾重かに回された窪みや、見込みの渦巻の凹凸に釉薬の濃淡が美しい。

器 おり部 鉢  径21cm 高9,5cm

作 北大路 魯山人

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No.225 山椒の葉の佃煮

 少し前、4月になる頃だろうか、ただの棒のようだった小さな山椒の木のあちらこちらに小さい緑色の芽が出始めた。日に日に葉は育って生い茂り、料理に飾るには大きすぎるほどになった。とは言えまだ出たばかりの葉は柔らかい。思い立って両手に山になる程の葉を摘み取り、佃煮を作ってみた。

よく洗ってから下茹でをして灰汁を取る。絞ると片手で握れるほどの量になった。初めてだし、試してみるにはこのくらいの量がちょうど良いかもしれない。葉が絡まない程度の大きさに包丁で切ってから出汁、醤油、酒、味醂と砂糖を併せた汁で数分煮て冷ます、を何度か繰り返して味を染み込ませつつ汁を煮詰める。

若い葉とは言え、葉の真ん中の細い茎は少し舌に触るけれど、えぐ味の少ない食べやすい佃煮が出来た。以前食べた山椒の葉の佃煮は、口の中がカッと痺れるほど強烈だった。最初の下煮の時間を短くすればきっともう少し刺激的な仕上がりだっただろうか、と思う。早速炊き立てのご飯で春の香りを味わった。

盛り付けた蓋物は第16代 永楽 善五郎(即全) の赤絵金蘭手。福禄寿の3文字が散りばめられ、小振りながら華やかな器だ。少し厚手の白磁で、蓋裏と見込みに絵は無い。見た目が地味な佃煮だから、こんな器に盛ってみるのも楽しい。

器 赤絵金蘭手 蓋物小鉢 径9,2cm 高6,5cm(9,5cm蓋込)

作 第16代 永楽 善五郎 即全

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No.224 人参しりしり

 子供の頃は嫌いな食材が沢山有って、人参もそのひとつだった。それが今では好きな野菜のひとつになった。人参を山で買って、沢山ある時はこの”人参しりしり”や”人参のラペ(No.33)”などを作り置きする。

”人参しりしり”は沖縄の料理。随分前に沖縄を訪れた時に知った。もうその頃には人参は好きになっていた。厳密に言うと、今回作ったのは”しりしり風”。沖縄には”しりしり器”と言う調理器具が有って、それで人参を”しりしり”して作るのが “人参しりしり”という料理だ。金属の板に加工がしてあって、その上を野菜をスライドする事で簡単に形の揃った千切りとかスライスが作れる、そんな器具のひとつ。しりしり器は持っていないので、チーズをおろす四面体の器具で作ってみたりもするのだけれど、今回はシンプルに包丁で千切りにした。包丁で切ると切り口が滑らかで、歯触りもシャープ。しりしり器で作ると、切り口に凹凸が多いので、味が滲みやすく歯触りも柔らかくなる。その時の気分で使い分けている。味付けはお出汁と酒、砂糖、少しの醤油で甘めに作る。最初に胡麻油で炒める事と、白胡麻を振り掛けるのがポイント。

 盛った小皿は古曾部焼(こそべやき)。裏の印から第3代 五十嵐 信平 (1833〜1882) の作と思われる。元々の古曾部焼は、平安時代の僧侶で俳人の 古曾部入道 能因(988-1050) が、古曾部(現在の大阪府高槻市)で手捻りで陶器を作ったのが始めらしい。その後、安土桃山時代〜江戸時代初期の寛永年間まで焼かれていて、小堀遠州による遠州七窯のひとつとされた、との言い伝えが有る。が、残念ながらこの頃の物は残っておらず、窯跡の所在も不明との事だ。

その後、江戸後期に京都で作陶を学んだ 五十嵐 新平 が高槻市古曾部に登り窯を開いて再興した。古曾部焼の窯は五十嵐の一軒だけなので、五十嵐の窯が古曾部窯となる。以降代々 ”古曾部” の印を使って高取、唐津、絵高麗、南蛮写などの作風で作陶した。初代、2代は”新平”との記載だが、3代から”信平”となっているので、理由は判らないが3代で名前の字を改めたと思われる。この五十嵐による古曾部窯は120年ほど続いて、5代の時に廃窯になっている。

この小皿、見込みの面だけに白い釉薬を掛け、呉須で波を描いている。厚めに掛かった釉薬に青の線が涼しげに見える。裏側は白の釉薬は掛けず土のまま、高台も無く底面は真っ平。底の円形を中心に、皿の縁まで等間隔で相似形の6つの円が彫られている。素朴な印象で愛着の沸く。

器 古曾部焼 小皿  径10cm 高2cm

作 第3代 古曾部窯 五十嵐 信平

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No.223 ほたるいかの酢味噌掛け

 この時期は、ほたるいか漁の最盛期。魚屋の店先には連日プリっとした可愛らしい釜揚げが並んでいて、つい手が伸びてしまう。大きさを揃えて下処理をし、綺麗にパックして販売されているほたるいかは価格も高め。少し面倒でも自分で手間を掛ければその分割安に手に入る。

以前、魚屋さんにほたるいかの下処理の方法を教えてもらった。まず、左右の眼を取り、お腹側にある半透明な軟骨を抜く。そして脚に囲まれた中央にあるクチバシの奥側を親指と人差し指で摘むと、硬くて丸い口が押し出されるので取り除く。このクチバシまで取れば ”完璧” だそうだ。もっと大きい、やり烏賊などを捌いた経験から烏賊の構造は解っているけれど、ほたるいかはとにかく小さい。自分の指位の大きさしかないから、力を入れると潰れてしまう。小さすぎて軟骨を探し当てるコツを掴むのに苦労した。でも ”完璧” に下処理をするとその分美味しくいただける。

ほたるいかは菜の花と盛り合わせて酢味噌でいただいた。酸味を強くしたくないので、白味噌を出汁で伸ばしてから砂糖と酢で味を整えた。まろやかな白味噌と酸味が加わってほたるいかの濃い旨みが引き立つ。使った器は粟田焼、江戸時代後期の 岩倉山 吉兵衛作 の手塩皿。見込みには細い筆使いで風に揺れる撫子の花が描かれている。華奢で上品な器が多く、濃い色が染み込みやすいのが難点だけれど、気持ちの安らぐ焼き物だ。小さなほたるいかが象牙色の薄くて華奢な器に映える。

 粟田焼は初期の京焼のひとつ。箱には『御茶碗師 岩倉山造』の銘と共に『御菩薩 手塩皿』(みぞろ てしおざら)と有る。岩倉山 吉兵衛 は、初め洛北の岩倉で陶器を作っていたが宝暦以前に粟田に移り、元の窯の地名から岩倉山を名乗った、と言われている。岩倉山は江戸初期に洛北に有った御菩薩焼の流れを汲むのかもしれない。可憐な色絵の作風も御菩薩焼の特徴らしい。岩倉山の銘があるので、この器が粟田焼の 岩倉山 吉兵衛 の作であることは間違い無いが、御菩薩焼の作風を伝えるもの、という意味で『御菩薩』と書き加えられたのだろうか。想像が膨らむ。

岩倉山は、1755年に将軍家の名を受け、日常の器を納入、以降も将軍家や有力社寺の御用を勤めたそうだ。文政から天保(1815〜1844)にかけての吉兵衛は仁清風の作風の名手だったと伝えられている。初代から数えて何代続いたかは不明だが、岩倉山は明治7年頃に廃業したそうだ。

器 御菩薩 手塩皿  径9cm 高2,8cm

作 粟田焼 岩倉山 吉兵衛 (代は不明)